425年ぶりにご先祖の冨田安芸守家治・冨田飛騨守家朝父子の正式なお墓を2012年3月15日に建立。
肥後国衆一揆の敗北で豊臣秀吉の勢力に抹殺されることを恐れて、世にはばかることが出来なかった時代、時代が変わって百年経た江戸時代にようやく、名字、家紋が蘇った。この425年間もの間、冨田一族の先祖が、安芸守父子の石塔を建立することができていなかったことを亡きご先祖に大変申し訳ない想いが募る。しかし、一族がその時代、時代を何とか生きながらえて今日に至っていることを感謝する意を表したい。
そこから、肥後国衆一揆で佐々成政軍勢と戦い菊池の隈府にて没した安芸守父子の御霊を奉り、戦国時代の史実を墓石刻字することによって未来へのメッセージとなす事が出来れば最高である。
建立への取り組み過程
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一族に言い伝えられた安芸守の墓の確認
上永野にある古いご先祖の墓地は、「冨田安芸守のお墓なので大事にしなくてはならぬ」と一族に言い伝えられて現在に至っている。私の父からも、叔母からも、年配の従姉妹たちからも聞いている。その中には、いろいろな体験を語る人もいた。子どもの頃、節句には団子をつくりお供えをしていたとか。ご先祖の霊と出会ったことがあるとか。
しかし、現状の建立されているご先祖の墓は、江戸時代のもの。一番古くても1716年。
1800年代のものと続いている。どこにも、墓誌、刻字から、「安芸守」に関する記録は見あたらない。なぜ「安芸守の墓」と言い伝えられているのか疑問を抱き始めた。
その江戸時代の墓石の西側に南北一列に並ぶ、川石だけで並べて作られた墓がある。
まるで花壇のように見える朽ちている墓である。実は、これらの多数の墓が、戦国時代の戦死した一族の墓であるとすれば、「安芸守の墓」であると言い伝えられている謎が解明できることにつながる。
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安芸守の真の墓と江戸時代先祖の墓の識別
江戸時代に建立されている墓は、世の安定した時代となり、墓石の組み立て方も、下段石、中段石、石塔の三段重ねで、
家紋、俗名、法名、年代を打刻し、後世に伝える構造をなしている。
安芸守父子の墓の絞り込みと特定にいたるために、考古学的仮説と推理を設定した。
・戦国時代の戦死につき、戦場から、家臣家来衆により、速、遺体を敵方にもちさられないために10キロ離れた、本領地の上永野へ運び去り、埋葬したのではないだろうか。そして、阿佐古川「木野川」から、川石を運び、墓のサイズを縁石を並べて、その広さにより、身分、地位を表した墓つくりをしているものと考える。狭い縁石の多数の墓は、家来衆の墓となして、誰の墓であるか識別できるように考えた埋葬の墓と考えた。
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戦国時代の埋葬手法
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物故者の特定困難な墓つくり
埋葬者が誰であるか即座に判明する墓つくりではなく、どこの誰であるか特定しがたい造りとなっている。もし、特定できたとすれば、戦国時代の背景では、死者の掘り起こし、墓荒らし、など横行し、為政者に証拠品として、利用されることも考えられる。そこで、無名の墓として、川石を並べただけの朽ちている墓造りでカモフラージュしていたものと考える。
今回、正式な形の墓構造となる墓を建立に踏み切ったのは、没者の特定ができたので工事に着手できた理由である。
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身分に応じた埋葬面積
安芸守の墓はどれなのか特定するポイントは、個々の墓面積にるのではないかと考察したことから始まる。
多数の川石だけで構成される朽ちている墓から、見えてくるのは、面積の広さの差異にある。つまり、上司、地位の高い者ほど広い面積で埋葬したものと推定できる。
また、二基ほど広い面積の墓があり、他は、その半分の広さの墓であることから、
安芸守と長男飛騨守の墓であることを特定した。
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真東方向(西方浄土)に向けた埋葬墓地
墓工事に着手してから、墓石の正面を据え付ける決定をするために、墓石の並びを安芸守と飛騨守の二基の正面を一直線上に糸を張り確認したところ、不思議と真東方向に正面の中心が向いていることが判明した。竣工後、方位測定用磁石で確認したところ、不思議と真東方向であることを示していた。当時、あわただしい戦時下での埋葬劇であったが、このように埋葬する中心が真東方向になっていることは、幾何学的知識を持って埋葬されている不思議さがある。
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命日の特定の過程
墓を建立するための不可欠な要件には、物故者の没した命日を特定することである。
安芸守の命日は、これまでの一族の言い伝えにはなく、全く知られていなかった。しかし、「菊鹿町史」(資料編P251~260)掲載および安芸守正室・二男摏千代の末裔に所蔵の系図によると、命日は天正15年7月28日と確認できた。