前に戻る

第一章 生誕は時代との交差点

 

             

 

わたしたち一族の頭領隈部但馬守親永殿が、このたびの殿と佐々陸奥守成政殿との合戦の詳報を記録して残すよう、私、明善に申しつけられた。後世に至って、このような記録がどんな評価を与えられるか、予知の限りではないが、殿が右の企画を思いつかれたのを私は次のように思量する。ご領地を潤すこの菊池川の豊富な水の恩恵にあづかる肥北の土地が、名君菊池二十一代重朝公を頂点におく高い文化的な環境にあることを、殿が日頃は明確に意識なさることはなかったにしても、やはりその心のどこかに文化的な影響をしたっていられる故であったろうと、記録者の私は考える。

殿が文字による自己表現の意慾をもたれたことについて私は、ひとりの人間の本質的かつ、普遍的な形での自己表現が、いわば文化とも呼べるに値することを知ったのと、いま一つは、このたびの紛争の終焉が周知の通り親永殿、成政殿お二方とも、天下人秀吉公の命により切腹という様式により生涯を果てられたわけであるが、殿には当初からそのような結果が何となく予想されたかも知れず、その故に並々ならぬお考えをもたれ、ある覚悟めいたお心組みをなされたことであろうとも拝察できた。それだけに私としては、この紛争の本質をうまく捉え、また見事に表現できるか自分の才を大へん危ぶむものである。

しかし、全力を傾注して記録の完成をはかるは、文字を綴り合わせることによって何かを表現するという作業にたずさわるものの冥利であると、私は自分の体の中に熱気がみなぎってくるのを覚えた。

藤原氏の系譜をくむ菊池一族の繁栄の頃、あるいは、このさき未代はいざ知らず、ここ数十年来親永殿とほぼ世代を一つにする現代にあって、大きなことを申すようだが文学の才覚においては隈部一族中私が出色であったので、このような気負ぶりは至極尋常であるといってよかった。

だが、殿が私に記録するよう申しつけられたのは、私の文学的才覚という条件はもちろんあったが、殿のお召をうけて隈府守山城へ奉仕し殿の意中を知るに及びいま一つの要因のあることがわかった。その要因を明らかにしていくことから、この記録を始めることにする。

上永野光巌寺から隈府守山城へは、一寸榎を経由して三里ばかり、片みち一刻半の道程である。天正十五年七月初めの夏のこと故、私はまだ夜の明けぬうちに光巌寺を発って、涼しい暁闇の道をやや急ぎ足で歩いた。道なかばの一寸榎の峠で夜は全く明け、南にひろがる方三里の開谷な野が視界にあらわれてきた。その視界の果ては台地の緑が黒く一条の線となって、天と地をわけている。野の中に点在する森に囲まれた村落や小丘を東から順次に名をあげていけば、戸崎、深川、出田、亀尾、馬渡りといづれも往時菊池氏の勢力が盛んだった頃の世に言う菊池十八城の砦郭の在った地である。

これらの城趾をつなぎ合せるようにして菊池川が西に流れているのであるが、野面にたゆたう淡い朝靄に覆われて水の光りは見えなかった。峠に立って、朝の冷気を法衣の袖に入れる間にも、東方の阿蘇外輪山の一角ともなっている正面に屹立する鞍岳山の、雄大な嶺を劃する朝空がとき色に光をおびて輝きをあげてきた。その瞬時にして山の端をはなれた朝の光茫は、迷い流れで菊池の野をくまなく橙色に染めた。ここからすぐ指呼の聞、眼交いよりも少し低め加減に、山と野の境界あたりに位置して望める守山城の樹々の大きな森にも朝日が映えた。静かな朝の寂とした光の一瞬が城の森にいま止っていると感じたとき私は、ふと、城郭の樹々の幹にへばりついて鳴く蝉の声を耳にしたような気がした。それは此処から望める城の森に映える光がまだ朝であるのに、感じの上では、もう夏の日の盛りの暑さを思わせる白光色の劇しい熱気となって燃えていたからかも知れぬ。あるいはまた峠道の土手あぜに植っている椿の頑文な枝葉のかげでみえない幹に実際に朝蝉が鳴いたのかも知れない。城に参り、殿の御用もすんだなら石見丸相手に蝉取りに興じ暫時くつろいでもよいと、私はなんの脈絡もなくそんなゆっくりしたことを考えた。

石見丸は殿の三男、末子であり私には甥にも当る。あとになってしまったが、私の姉藤子が殿の正室で、彼女には長男親安(山鹿城村城主)、次男鎮房(山本村内空閑城主)が居て、石見丸との周には大きなへだたりがあった。それだけに子どもがいない私には日頃石見丸を愛しくおもう情が濃くあった。

城の北辺を流れる迫間川右岸の玉祥寺部落を抜けて川を渡り、左岸の構え口から大手口に至り城内にはいる。私は今は仏門に仕える身であるので、城に奉公したときは格式にとらわれることなく何時もまず、姉藤子の方の許に参上するのを例としていた。そして経典を講話するのも慣わしであった。姉藤子も私の後座で唱和するのが仕きたりとなっていた。その口は早い到着であったので、勤行のあと私は姉と一緒に朝食の膳についた。姉は箸をつける間にも、

「明善殿、そなたが石山の合戦に出陣するために上方にお上りになられたのは、あれは何時の頃でありましたか」

と、たずねると言うよりも、私の記憶を呼び起こすような□調であった。

「さ、それは……」

唐突なことなのですぐには確かな返事ができず、私はしばらく食事をとめなければならなかった。

一口に石山の合戦といっても、信長と大坂石山本願寺の宗教戦争は、規模も大きく複雑怪奇をきわめたものであった。元亀元年九月、本願寺光佐殿が将軍義昭様恩顧の三好三人衆を助けて、信長へ挑戦したのを端緒として、一時小康を保った時期もあったが、以来、丸十年後の天正八年三月、信長のために本願寺派の各地の出城が落ち、ついに敗け戦さで終ったのであるが、私が肥後十三寺の一寺として本願寺の命をうけて救援のため上洛したのは天正二年秋であった。それは伊勢湾に注ぐ木曽川の川口の長嶋にこもる一向一揆の男女二万の信者が、信長の火攻めに会って全滅した直後である。

私は大坂石山本願寺の指揮下にはいって各地に転戦した。主な戦歴に、長嶋全滅から一年あとの天正三年八月越前の一向一揆の敗北戦の従軍がある。そのとき味方の坊主、農民の殺されたものは四万をこえた。十月に信長と本願寺に一時の和誼が整ったが、それは和誼というよりも、石山寺としては戦力補給期間と言ってよく、私も紀伊の雑賀衆の増援軍を迎えにいき、彼らの持っている鉄砲の威力に力強い思いを持ったのであった。

明けて天正三年五月、本願寺軍は一万五千の兵力をもって信長勢三千と戦斗を再開した。この戦いでは、信長が足に鉄砲傷をうけて退却するなど、少しは勝ち戦さの面白味を私も覚えたものだ。だが信長はこのあと戦略を変え、本願寺が頼みとしていた雑賀地域に攻め入り天正五年三月ここを破砕してしまった。以後本願寺派は不本意ながら戦局を縮めなければならなくなり、こうした情況をみて私はロ実をもうけ七月には帰国のため大坂をはなれたのであった。

「いま振りかえってみますと戦いに参じましたのは三年ほどになるようです。剃髪しましたのがそのまえの年、たしか、天正元年の正月でした。それでまだ明善という僧よりも、隈部紀伊守忠親という武辺者の強気があったものです。ところが畿内では負け戦さばかりといった次第でしたので、帰郷の番がまわってくる頃は、ひどく坊主らしく振舞もおだやかになり、初めの頃と終りではずい分な変り様でした」

「そうでした。帰ってきたそなたが諸事温和し振舞うのを見て、忠親のなんと変り様と、殿もわたしも噂にして笑ったものでした。そのうち、そなたは再びあれは半年が程でしたが、上洛されたのではありませぬか」

「そうです。一次の帰国からまた三年経って、天正八年の春から冬のくるまで。信長が時の帝、正親町天皇の御名をおかりして、関白近衛前久卿を勅使として本願寺に差し向け、ついに本願寺を屈伏させたときです。私はもうひと戦さするのかと覚悟して上洛したのですが、そんなわけで合戦にでることもなく半年で帰えることができました。ですが一体何で……」

私はそのときどうしてその頃のことを、姉藤子の方がいまになって私に思い出させるのだろうかと気づいた。

「いま頃そんなことを聞いてどうするのですか。解せぬ世間話でござりますが?

「いいえ、ただ」

姉藤子の方は、言いよどむとうれわしく気に眉をくもらせた。髪にはもうかなりの白いものがみえるようになっている。私が四十三歳、彼女は私よりも四つ多い四十七歳、すでに老女であるので顔に深い皺があっても不自然ではないが、なんとなく心中に憂鬱なるものがあるようで、さえない表情である。

「なんでござりましょう」

「殿が多く話して下さるでもないので、詳しくは申し上げようもありませんが、殿がそなたをお呼びになったのも、きっと今のようなことをおたずねなさるためです。明善は、おのれの目でしかと見ている筈じゃと……」

「なにをしかと、この私が……」

「みかどや将軍のいます畿内での、信長殿、そしていまは天下人秀吉様あたりの、戦さの仕ぶりや、国人、僧坊、商家、百姓どもへの手だてのなさり方を、明善は見ていると申して居られました」

「・・・・」

私にはそれが何を意味するものか、まだその時まで少しの予測もつかなかった。私は心を静めて喫食のあとの茶湯をゆっくり時間かけて飲んだ。外はすでに日照りが強くなり、庭先の樹々に鳴く蝉時雨があったが、かえって暑いなりに寂としていた。筧の水が間をおいて受竹をくつがえす音が規則正しく聞えていたが、それはこのさきの廊下を廻った向うの、殿の書見の間の庭であるので見えはしない。

ほどなくして私は殿に目通りした。今年の正月に年賀に参上して以来半年ぶりにみる殿であった。殿の顔をみるまえに私の視線は、縁先の筧の水に走った。水は木の葉の下で青い日射しをうけて光ったが、例年になく水量が乏しいようにみうけた。今年は雨が少ないのだろうか、そう言えば数日まえ、自坊の庫裡で近在の百姓と寺男が、木野川の水が少ないと話していた。水が少なくては、稲田の潅漑水の手くばりにも難儀するであろうと私もおもったものであった。私は、こんな場合に至って気象のうごきに心をむける自分に妙な気がするのであった。

殿の顔が屈託もなく晴れている道理はない。何かと心組の予定もあったろうに、早朝から出向いてきて貰って御苦労だと、私に申される言葉は平生と変りなかったが、その調子にはやはり姉上から聞いていた故もあって、殿の御様子にはどことなくご自分の考えの及ばぬ距離感に思案の様子がみうけられた。

「いま、あちらで姉上からちらと耳にいたしたのですが、どんな細があるのですか」

人目のある表向きの場所では、殿に対して主従の作法をとったが、内輪では殿は義兄にあたるので私は自然の情に従っていた。今日とても内輪の通りである。

「私の石山合戦従軍の折のことなどおっしゃっていられたように聞き及びましたが、今頃どうしてそんなことを申されるのですか」

「実は、そちも耳にしたかと思うが、隈本城の佐々殿が理不尽な申し入れをして参ったので腹にすえかねているところじゃ」

殿は私より一まわりほど年長だから五十二歳であったと思う。

やや長身、細面のとくに際だった点もない容貌は、日頃はどちらかというと、感情をあらわに表にみせられることはないが、今日はきりきりと奥歯をかまれてのはげしい口調なのに驚かされた。私は細面の容貌がこれほど、人間の内なる神経のたかぶりを現わすにもっとも相応しい型であることにはじめて気付きみとれたくらいであった。殿の怒りが強いのでまだ噂を耳にしていなかった私は少し殿に申し訳ない気もした。

 

               

 

私たちの頭領親永殿を切腹死に致らしめた相手は、いわば私にとっても仇にあたるので、佐々殿と尊称をつけて呼ぶことはいささか心に抵抗するものがあるが、しかしその佐々殿も殿よりもすでに早く、おなじく天下人秀吉様から切腹を仰せつかりお果てなされているのであれば殿と呼ぶのは死者への礼と考える。殿すらあの夏の朝、腹にすえ兼ねて大へんな神経のたかぶりをみせられたときでさえも、やはり佐々殿と呼ばれ、礼を外されることはなかった。まして私は、今は人の死の世界にもなにほどかの縁りをもつ仏に仕える身、憎しみにまけて呼びすてにすることは許されぬのである。

その佐々殿と殿が初めて対面されたのは、天正十五年七月朔日、新しく佐々殿の居城となった隈本城の城中であった。秀吉様により肥後一国の領主に封された佐々殿の接見の儀であるので、殿は心ならずも相手方より一段ひくい位置におかれたような気をお持ちになった。そのような負の心理は、接見の場に当てられた着到櫓の板張り敷で同じく佐々殿の着御を待つ城越前守久基様も同じとみえて、そっと殿にささやかれたものである。

「こう、待つ身となるとなんとなく落つかぬ心地が致すものです」

「左様。先方がどんな武辺者か不案内なひと故、この目でみるまでは気が重とうてのぅ」

殿がそう言って苦笑なさると、

「信長殿御存命の頃は黒母衣衆の一人として名ある武将かと承るが・・・・」

と越前守様はおっしゃった。そんなおっしゃりようから推しはかると越前守様は殿よりもなお一段と屈伏心理にとらわれておいでのようであった。考えてみるとそれも無理からぬ面があるのだ。なぜならば、この隈本城は代々越前守様の祖宗より頷されていられたものであったが、佐々殿が肥後の大名に補されるに及び、越前守様が城をおゆずり明けになったものである故に、心中は大へん複雑なおもいをなされていたに違いない。

そのほか甲斐宗立様始め国侍衆のみなみな方も、大同小異の負の心理があったとみえ、あちこちでひそやかなささめきが交わされていた。待たされてもう小半刻はたち未の下刻に近い。

殿は見るともなしに、矢狭間を通して櫓の外界に眼をむけられていた。外は焼けた白い熱気が照り返えしていて、少しみつめていると目が痛くなるようだった。櫓のなかは小暗く、絶えず狭間格子から微風が吹きこんでいたので、幸い、流るる汗ともならず待つ身のじりじりとたかぶる気を和らげる涼となっていた。櫓の外のどこか樹木のかげに、殿を始め国侍の歴々に従ってきた供の侍たちがいる筈であるが、それらしい者たちのざわめきも、物具のふれ合う音も聞えて来ず妙に静まりかえっていた。城方の手によって、城中の奥の方にでもその溜り場が移されたのであろうか。殿は意識のすみで、もしそうだとしたら、佐々殿が如何にもやりそうなことだと思われた。少しは警戒の度がすぎるような気がしたが、城方の立場に立てば無理もない策だという気にもなられた。しかし、殿にすればそれだけ孤立化し不安なことなので、矢狭間の外山介にむけていた視線を越前守様にうつして、「外は暑気もきついようでござる。見られぃ、狭間の向うにうつる白い熱気を」

それから少し声をおとされた。

「こちら、右の狭問の外はすぐに濠の水であったとおもうが、越前殿はよく御承知の筈…」

「いや、濠は大手から西の方、北へ廻ってもうけてござる、この櫓の右外は坪井川の水をもって護りを固めるよう地割がいたしてござります」

「それは儂としたことがうかつなこと。それにしてもここを城と定められた御先代のすぐれたお眼識は感服の他はござらぬ」

「左様、地の利を得ておりますが、この越前にとってはなんの益にもなり申さぬ。事が起きれば、かえって某や、また但馬守殿を苦しめることにもなり兼ねますまい」

「いや、如何にも。しかし、そのようなことに相成らぬよう深く心いたさねばならぬ。この但馬も、越前殿もお互いに自重が肝要だと存ずる」

殿は自分でもこれまで肥後国侍の筆頭として羽振りを利かして来たのに、どうして今日は弱気とまではいかないが、常にない慎重を期したのか不理解だったと、後日、慎重を期したにもかかわらず佐々殿と事を構えるようになってから、そのときの心情をお話なされたものである。

それはさておき、佐々殿がようやく謁見の席におでましになった。背丈は想像していたより高くはなかった。ふたり並べばむしろ儂の方が少しは大きいかも知れぬと殿は瞬間、思われたそうである。殿は私よりも二寸ばかり長身である。私は五尺三寸の中背、そうすると佐々殿は私ほどの背丈と相成るか。だが背丈のわりには不釣り合に怒り肩であったそうである。だが顔色は案外白く、顎鑛の剃あとも青く、ぴんと張った八の字形の鼻髭が印象的で、如何にも見た眼には、畿内で名ある武将たちに伍してその存在を見られてきたという都びた感じであった。だが殿は直感的に佐々殿の外貌の無難さにくらべて、相手へむける眼ざしが絶えず小刻みにゆれているようで定まらず、性急な性分もおありのように見てとられた。まことにこのときの殿の直感が的を射ていたことがすぐに証明されることになるのである。

上座につくもの、下座に控えるもののお互いに作法通りの所作があって、殿は佐々殿と初対面の儀をすまされた。佐々殿に随う家臣とも面識を得られた。佐々殿の弟右馬頭、同甥与左衛門宗能、久瀬又助、前野文五郎など、いずれも佐々殿側近の武功ある武辺者で、このたびの肥後赴駐に際しては、秀吉様から刀を引出物に拝領していると言われていた。

時分どきであったので昼食が用意され酒もでて型通りの見知りの会食となる。被征服者側に立っているわけではないが、すでに初めから臣下の礼をとらされていたようなもので、殿にすれば会食といっても甚だ窮届で大儀な時間であったに違いない。自由に席を離れるわけにもいかなかった。

殿が佐々殿を観察されていたのと同じく、時間が経つにつれて佐々殿も個々の国侍について観察ができるようになった。国侍のなかで佐々殿が一番心やすくつき合やすい相手として、お気に止められたのが越前守久基様であったことは、偶然といえば偶然であるが、なんとできすぎためぐり合せであったことであろう。殿と越前守様の間が親しいおつき合いであることは今更申すまでもない。とにかく越前守様には生まれながらにして身についたまるやかな徳気というものをお持ち合せのようにうかがわれた。そのようなわけで、相手の心に取りいるような言辞は、片句たりともだされるような人柄とも思えぬ佐々殿が珍らしいことに盃を下しながら、

「越前殿、そこ許にはひどく相すまぬ気がいたすが、何分宜しく願うぞ」

と仰せられると、越前守様は屈託のない調子で申された。

「そのように仰せられますと某、かえって言葉がございませぬ。

殿が仰せられたのでふと気がついたことですが、某は宗祖がひらいた城を後に器量人におゆずりする定めのようでございます」

「城をゆずる定めとな、 それはまた何故じゃ」

「は、某の宗祖越前守六郎隆紀と申すものが、山鹿城村城を築きましたが、某がここへ移る際これなる但馬守殿の長子式部大輔殿におゆずりし、今またこのたびは殿に本城をおゆずり申す次第、いずれも戦場での勝敗の結果にあらずして、情誼による授受でござれば某一分一厘ほどの異存もござりませぬ」

「そこ許の申しよう、この成政、深く心にとめておくぞ」

佐々殿は大へん感服なされたようであった。もし、これが越前守様に少しでも相手の気に入るようにお世辞に長けた一言で申されるような面づくりの卑しい意識があったら、良くも悪くも佐々殿ほどの方がそれをお感づきにならぬ筈はない。それが佐々殿としては素直に礼をのべていられる。事それほどに越前守様の人となりに徳気があると申してよろしいと私は考えるのであった。その徳気の故にわたしたちの頭領親永殿も越前守様と親しくなされていることは改めて述べるまでもないが、ここにおいてひとりの人物を中心にして、殿と佐々殿がもうこの時点でやや険悪な関係に運命づけられたのは偶然が然らしめる以上のものがあったとも私は考えるのである。

このような、私のいらぬ推理だてはさておき、佐々殿は自分の思惑が案に相違して、これら国侍のなかで左程重く見られていないことを観察の結果得られたようである。

佐々殿がどうした伝手、どうした思惑をかけてそうなざったのか、つぶさに知るわけもないが、当時衰退の際に臨んでいた阿蘇家の幼主惟光、惟善兄弟を隈本城に招き、

「名門阿蘇殿を絶やしてはならぬ。ご兄弟いまだ幼といえども尊き神の喬である」

と礼をつくし俸禄を元に復しておやりになった。このことは国侍の間では専ら、佐々殿が肥後に就封するに当り、われら国侍の心証をよくしようとの下心あっての措置だという見解であった。佐々殿も強いてこれら国侍の見解を打ち消されるようなことはなさらず知らぬ素振りをとられた。しかし、考えてみると佐々殿のこの措置は思い切ったなされ方とも言えた。なぜかと申すと、阿蘇家は先年の島津ご征伐時、幼き故を以って秀吉様をお迎えしなかったので、不興を蒙り一たびは所領を召しあげられてしまったが、あとでまた矢部の旧領三百町を与えられ辛うじて社領を保つことができたのだった。

そのような秀吉様の不興を蒙った惟光、惟善ご兄弟を佐々殿が厚く遇されたのは、よしんば国侍の心証はよくなし得たとしても、天下人秀吉様の心証には如何お映り申したものか、この辺の秀吉様と佐々殿のお二方の心理的な交わりが少なからず関心がもたれるところである。その影響はきっとなんらかの形で後日佐々殿のお身の上に現われることであろうと私は思った。

佐々殿がいうならば民心を収撹する方策として、惟光、惟善ご兄弟を遇されたことについては、会宴の席でも国侍の間からは、なんの反応も現われなかったという。誰か国侍のひとりくらいは、賞めてくれそうなものだ、そこらあたりの氏素姓も定かでない土豪連中と違って、阿蘇家は畏こき辺りともっとも近い名門だ。その名門が凋落するのを防ぎ止めてやったのだから国侍たちに土着の連帯意識があったら、当然自分がとった措置は感謝されてよいのにと、佐々殿はお考えになったのであろう。 

また逆に悪く言うものもない。もちろん口にだして非をとなえる国侍がいる筈もないが、とにかく佐々殿の思惑は完全に無視されてしまったようなものであった。そのくせと言うのも変であるが、阿蘇殿は無視したような国侍のお歴々が向を転じてわれらが殿に接される態度や言葉の端々にはひどく丁寧なところがあり、ときとするとその物腰には佐々殿に対する畏敬と同等なものがあるようにみえた。もとより佐々殿もその点をしかと観察されたのである。例えば次のようなところがそうであろうと私は推断するのである。

右馬頭様は佐々殿の弟に当ることはさきに申したが、その方が列席の国侍のうち、とくに誰かを名ざしておっしゃるでもなかったが、

「当国で珍しいものはなんてあろうかな」

とお尋ねになった。すると中座あたりにおいでた内牧城主辺春丹波守盛道様が即座に、

「ござります。他国には滅多にないものが一つござります」

とそう申されてしばし声をとめ、聞き手の興を惹くように右馬頭様をごらんになった。そんな丹波守様の口調や物腰には相手にへつらいするような浅薄さが感じられたが、あるいは単純にお国自慢をなさりたかったのかも知れぬ。

「ほう、そんな珍しいものがあると申さるか、してそれは」

右馬頭様も膝をのりだしになった。

佐々殿が、国侍のお歴々がわが殿親永様を畏敬の目でみているのを観察なさったのはその折りである。佐々殿は弟右馬頭様が膝をのりだして知りたがられる様子をみて、丹波守様がすぐに答えになるものと、ご自分を期待して固唾をのまれたのにあに計らんや、

「但馬守殿、阿蘇の火を吐くお山がそうでござりましょう。他国にやたらとあるものではござりませぬ。某から、当国で珍らしいものは、この火を吐く阿蘇のお山だと、右馬頭様に申し上げて宜しいかと存じます」

とまるで殿の御同意がないと、言うもはばかり気な申されようであった。

「いつか機がござったら、丹波殿が御案内なさるとよい」

殿もそう仰言ったが、丹波守様ほどにお関心がありになるようなご様子ではなかった。そんなであったから、右馬頭様も丹波守様も妙に話の端を折られた恰好で話題は次に移っていったものである。

いうならば、これらのことも佐々殿の思惑外れと申してもよいものであった。

会食は半刻あまりでお開きとなった。殿を初め国侍のお歴々はそれでお開きかとお考えになっていたようだったが、佐々殿が退出間際になって申し渡された。

「半刻ばかりそのまま休息なされよ。そのあと改めて政道について、はかりたきことあり」

 

 

 

 

さて、私は何を記録するために右のような天正十五年七月一日の、隈本城佐々殿就対の国侍謁見の一挿事を写してきたのであろうか。少しく冗説になったきらいがあって、記録の趣旨をはずれた感がないでもないので元にかえらなければならぬ。殿が私をお呼びつけて、以前私が畿内地方の宗教戦争に従軍した折りのことをお尋ねになった。もう六、七年もまえのことを殿は何故お尋ねになるのか。殿の真意を明らかにするための段階として、私はこれまでのことをのべてきたのであるが、これからがいよいよ実体にせまることになる。

佐々殿は弟右馬頭様はじめ主立った家臣を引きつれて、会宴の席を退出なさると、緊急とはいかないまでにも、いま行われた謁見の結果について、評定を開かれたであろうとは容易に察せられるところである。佐々殿は全体として、さきの結果が成功だったとは考えられなかったであろう。いや、ある意味ではまちがいなく不愉快ですらあったと思われる。

「右馬頭、そちはなんと見受けた。 彼奴らの胸の底を」

「は。あの国侍たちにおしなべて言えることは、尊大ぶってまだ兄上の威令をよく存じないと見えました」

「如何にも。なかでも但馬守は予と同格ぐらいに構えて居って嫌な奴じゃ。宗能はどうじゃ」

「はい。某も殿と叔父上に同様にござります。だがこれもその・・・・」

宗能様はまだ三十歳には達されぬよう見える。成政、右馬頭ご兄弟には姉に当る方の長男で、いわば叔父、甥の間柄であることはすでに申したことであるが、お二方の神経質な気質とちがって若いに似合わず宗能様は、どことなく落着いて思慮の深さがおあり気に感じられる。もっともそのことは一面では叔父に対する遠慮とも、またかすかに決断力の弱さともみられる不安なものがまつわりついていたともみられなくはない。いづれにしても、敵方の立場にある私によくわかる筈はなく、人づてに聞いたところによって宗能様の人となりをあれこれと判断するばかりである、いまも宗能様は佐々殿のお尋ねに応えられたが、なにやら別に見解がおありのようである。

「何じゃ、遠慮なく申してみよ。そちはなかなかの律義者だから賢い考えをもっておることだろう」

「はあ、これも一つにはわが殿のこのたびの国大名お成りの理をよく知らないからでありましょう。秀吉様の仰せつけと言うことがわからず、国侍の気持のなかには、殿の存在がただなんとなく、おのれたちよりも異質の国侍が割り込んできたぐらいにしか考えていないのではありませんか」

「うむ。だが国侍たちも秀吉様より直々に本領安堵の御朱印を賜わっているから、それは少し見込みちがいではないか。右馬頭、そちの思うところは如何じゃ」

「いいえ」宗能様が、右馬頭様が仰言らないまえに申された。

「御朱印をお受けいたしたからこそ、いよいよもって殿と同等の地位にあると勘ちがいをいたしているのでございましょう。殿が国侍の上に立つ新しい国大名だとは、わかり兼ねるとおもわれます。殿はむかしの戦国大名とは異り申す。国侍たちにはそこがよくわかりませぬ」

「うむ。田舎侍たち奴、秀吉公のお天下となった今日の時の流れにうといは仕方がないが、それくらいのことも考えつかないのかとおもうと腹立たしいことじゃが、彼奴らのとり扱いには苦慮いたすわ。右馬頭、宗能、なにかよい思案はないものか、他のものもどうぢじゃ」

佐々殿が頭をお痛めになるのは至極当然であろう。肥後一国の大名におなりになっても、ご自分の裁量で国をとり仕切る権限はなに程も有されなかったのであろう。複雑な国情のなかではどのような政策をとったらよいか、佐々殿ならずともあれこれと心をくだくところにちがいない。そのなにかの端緒がつかめるかも知れぬと期待をなさったであろう初回の謁見はすでに記した通り決して成功ではなかった。そのため、更に二次目の会合でどんな対処をなすか、いよいよ難しくなった次第である。流石の強気な佐々殿も、何かよい智恵はないものかと家臣団にはかられるのも無理ないと思われた。

しかし、その策というのは一体なになのか。相手が公然と反旗をひるがえすものなら簡単である。武力をもって屈伏さすればよい。だが佐々殿の場合はそうでなくお政道という手段によって手馴づけていかねばならぬのであった。

つまり、これも宗能様の申されたことであるが、文字通りご自分たちが食っていくために、何か早急に手段を講じなければならない状態に佐々殿の側はおかれていたのだから先ず、食うものをどうして得るか、お政道以前の問題であった。宗能様は申されたのである。

「このたび大坂表よりついてまいりました。われらが総勢は五百余、これが食とする兵粮は幸い城越前守が貯えていた分により、此処一、ニケ月は事足りましょうが、そのあとはどうして徴するか、まことに由々しき事に至は必定でございます。殿が秀吉様から給されました封禄は五十余万石。だがこの禄高をどこからお集めなされますや。当国の国侍五十二人衆はそれぞれ秀吉様より本領安堵の御朱印をいただき、いささかも昔に変ることもありませぬ。いや、むしろかえって秀吉様によって安泰となり申した。その一方、殿は大坂城お伽衆から五十余万石の大名に立身遊ばしてもそれは名のみ、五百余の家臣に食を与えることも危ふまれる次第。殿は秀吉様のお心のうちをなんとお考えなされますか」

佐々殿は枕黙のままであった。右馬頭様も家臣も同様であった。

暑気のむんむんと澱んでいる夏の昼下りの評定の場に、さらに重苦しい精神的な痛みを感じさせる空気が生じてきた。宗能様の語気はあきらかに終りの方では熱し、お顔も上気し、自分でもおさえきれぬ感情に流されておいでのようであった。佐々殿はじめ一座の方々が黙っていられたのは、誰しも考えぬことではないが、それをロになされないのは、秀吉様をおはばかりするといった事の重大さのためであった。だから宗能様のおっしゃりたいことは、佐々殿主従には痛いほどおわかりであった。まことにその日の食うものにも事欠くような情況が佐々殿の実体であったわけだ。とにかくなにか策を考えなければならぬので鳩首協議の上案じだされたのが、他にもあろうになんたることか、われらが頭領隈部但馬守親永様に難儀となって降りかかってきたのである。

その策がどんなものか、おそらくこれまでの佐々殿主従の話合いの経緯からすれば、案じだされたのはやはり宗能様に相違ないと思われる。

一刻ばかりの休息の時間が少し長くなって、二回目の謁見がおこなわれたのは、おっつけ午の下刻になろうとしていた。さすがに夏、日中の暑熱の高い時分を通りこした頃で、狭間の向うにのぞかれる外景の油照りもいくらかやわらぎ、吹きこんでくる風は量をまし涼気を加えていた。百畳敷ほどの板張り間が、ひるまえよりもなお小暗く感じられるのは真夏の天道がやや西にまわったからであろうか。この城は大手口の向きから案ずると全体がやや西南に面しているが、着到櫓は東向きだった。

・・・・殿は佐々殿の口からでる事があまりにも意外であったので、上体を前かがみ加減に持して、首も心持ちかたむけ、丁度体全部でもう一度理解に努めているといったような姿勢であった。まだ五十二歳のそれほどの齢でもないのに、傍目からは耳が不自由なのかとも見える姿勢であった。しかし佐々殿はその様子に目をおくり、心の片すみのどこかで、小気味よいものが音を立てて鳴るのを感じられたことであろう。佐々殿のご態度はわりと下目にでていられたが、それはわざとそう執っていられることがはっきりしていた。両者の問答の余裕はやはり初めから、国侍衆の側でなく、兵粮はなくとも佐々殿に歩があった。

「で、いまも申したように、われわれの苦衷を察して貰い、検地に当っては存分の加勢を望むものじゃ。よいな。検地の時期、方法、誰の領地から始めるか、そのような手順についてはこれから宗能が申すことをよく聞きとられぃ」

と仰言って右馬頭様の下どなりに控えていられる宗能様に目配せをなさった。宗能様が心得顔で膝をすすめようとされたとき、

「あいやしばらく」

と殿が袴尻をさばいて進みでられた。

「さきほどからの仰せではござるが、われら国侍にとっては異なことに承る。われらが所領各々は、さきの秀吉様の島津征伐のみぎり、当国にお駐留の節下しおかれた御朱印状によって明らかな通り安堵されたもので、佐々殿の検地を受ける筋合はないものと考える。それを今になって何故の検地でござるか腑に落ちかね申す」

「さればその仔細はこの宗能からただ今申し上げましょう」

若いが佐々殿の家中切っての利発者らしく宗能の応待ぶりもしっかりしている。

「いかにも但馬守殿の申される通り、お歴々の御所領は秀吉様より下しおかれた御朱印状によって安堵されたものに相違はござりませぬ。しかしながら、ここで言えることは例えば但馬守御所領の八百町については、八百町かっきりあるのか、あるいは上廻るのか、下廻るのか誰にもわかり申さぬ。秀吉様はもとより、但馬守殿ご自身もその辺の処ははっきりとお分りではないものと存ずる。いいかえれば八百町と申すのは、すべてそのところを慣習によって現わすものではござるまいか」

「宗能殿、それは詭弁というものでござろう。もとより縄ばかりすれば某の八百町に一分一厘の狂いもないとは申さぬ。しかしながら筆数にしておそらくは万とある田畑の数、しかも一枚々々があたかもわれら人問の顔の異るよう、形も広さも相異るが田畑本来の相。それを一分一厘も狂いのないよう測るは、人間業とは云え至難でござれば、あまり見込みちがいでない限り、国人、百姓とも納得のいくところで表向きの面積とする慣習に従って参った。それを無視なされて検地をいたされるとは、一国の太守と申していられたが、それにしてはいささかお心せまいご量見と存ずる。しかも、さきに再々申し上げた通り、われら国侍の所領は秀吉様によって安堵されたものでござれば検地などとても承服でき申さぬ」

「いや、但馬守殿、あなたが申される通り、殿が肥後一国の太守となられたが故に、また秀吉様によって安堵なされたが故に八百町かっきり検地いたし、その分を但馬守殿の御領地として与えられるのが当然の義務と申すもの。して検地の基準は、秀吉様が大和、近江を始め畿内を坪付けなされた時の六尺竿で測り、かつ六十丁に五十丁の三百歩を一段とする新しい方式による故左様お国衆も御承知おき下されぃ」

「なに、六尺竿となぁ」

「この頃耳新しい生駒竿というのがそれなのか」

国侍の列座のなかから愕然となさったざわめきが起きた。殿も声こそお発しにならなかったが、頬がぴりぴりとひきつり不安とお怒りの面持をかくしきれないご様子にみえた。

宗能様がそんな国侍の動揺などは気付かぬ風に佐々殿に会釈をおくられると、

「但馬守殿、よいな。そこもとの検地を終り次第他は追而沙汰いたす」

と最後の断がおりた。殿は無言で頭をお下げになり佐々殿が退出されるのを送くられた。残された国侍の席がふたたび騒然となった。

「六尺竿を用いるとは理不尽な。しかも三百歩が一段となっては、歩出しがでるのは必定ではござらぬか」

「そこが検地の狙いじゃ、歩出分は佐々殿に取り上げられるのじゃ」

当時の慣行は六尺三寸竿で六十間に六十間の三百六十歩が一段であったから、新しい方法では六十歩の歩出しがでることになる。国侍のお歴々が驚かれるのは尤なことであった。たしか御船城主甲斐宗立様であったようだが、

「但馬守殿、如何なされる」

と声をかけられたが、殿は眼をとじ黙したままでござった。

 

            

 

さきに殿が私を呼ばれた理由がどの辺にあるのかと、測り兼ねたのであったが、ここに至ってその輪郭が形をととのえてきたのである。察するに、殿はもういささか年経た古い頃だが、私が畿内地方に暫く居合せたことがある故に、もしやこのたびのような検地をめぐるいろいろの波紋について、なにか存じよりのこともあるかも知れぬ、些細なことでもよいから聴き知りつくし得て、佐々殿の検地申入れに応ずる手段をたてられる心のうちと見えた。したが、これまですでに申したように、私は石山本願寺の召集に応じ、信長様との合戦に従軍したのであるから、検地といういわば合戦が表ならその裏になる政治や経済のことを、心して気に留めるほどの思慮は持ち合わさなかった。しかし殿が全く突如として難関にお会いなされたのを知り、また殿がそのために私を召された理由も知りつくされたとき、私には一つの記憶が呼びおこされた。私は殿にそれをお話し申し上げた。

・・・・天正八年八月下旬、私は石山本願寺光佐様が京都に差つかわされたお使者のお供に加わって奈良の街に滞留していた。光佐様はあと月の七月、信長様に降伏されて紀伊にご退去なさっていられ、私もそちらに出向いていたのであるが、今も申すようにお使者の供をして京都におもむく途中であった。

私の眼に映じた大和の国や、奈良の街の有様は、あたかもこの季節に襲ってくる台風の眼のなかにあるような状態に似ていた。今が今まで荒れ狂っていた暴風雨が、急にぴったりと止み、しばらく一休みして再び吹き荒れる時を待っているかのような、不気味な静けさの底で、そっと息をひそめているのと同じに映った。宿舎に当てられたさる寺院の僧坊から、当分旅立ちは見合わせたがよかろうと話があったとき、なにせ不穏な世情のわけがわからぬので、ただこの分だと恰好のつかぬ長逗留になりはしないかと不安がったものである。

そのうち聞き得たことは、当国筒井の城主筒井順慶なる方が、すぐる天正五年に松永弾正久秀を信貴山城に攻めて滅した功などもあって、今度信長様より大和一国の主に封じられたのを機会に、郡山城一つをのこして他の城砦をみな打ち壊しになった。一方、城を追われた国侍たちにすると、それは単に城というものを失っただけではすまされず、領土や百姓たちも、いわゆる自分の生活の基盤を絶たれることであるので、大和の国じゅうは不安と恐怖と不穏な雲行の坩蝸と化していたところに、たまたま私たちが行き合せたのであった。自分らに縁はない他国の騒乱だといっても、小入数の僧形の一団が往来するには、まだまだ先年来の一向一揆や石山合戦などの余波が劇しかっただけに注意を要するところであった。

そうこうするうちにまた異様な噂が、丁度紙が音もなく燃えてしまったあとに、黒い燃え屑をのこすように、町や村にばらまかれていった。

奈良の町の西南にある法隆寺へ信長様の命をうけて、滝川一益、矢部善七郎の二部将が何のまえぶれも無くやってきて、法隆寺の寺領を洩れなく細かに書きしるした指出しを出すよう命令されたという。命令の調子は大へんきびしいものであって、後日奈良の町辻にはりだされた布告のなかに次のような筒所があったのを断片的に記憶している。それは『国中寺社、本所、諸山、国衆悉以一円に指出』をするように命じ、その指出書に不審の点があるときは、直接耕作者の百姓に問いただし、もし実際の面積よりも少なく胡麻化しているのがわかったときは糺明し、所領を全部取り上げる云々とあった。

法隆寺の怯えはたとえようもない有様で、まちにはいろんな噂でもちきった。信長様の部将や重臣を懐柔するために、奈良のまちの遊女を急ぎあつめて、枕側に侍らせようと策したが、かえってきつい叱りを受けて、さる管理的な地位にある高僧が面目を失せられたという。滝川一益様は、「これが余人なら即刻髷を剃りおとし、坊主にしてくれるところだが、初めから坊主では話にならぬわぁ」

と苦笑されたという。また遊女が足りぬので、寺に出入りの世話人を通して、近在百姓の娘を家事手伝いの名目で集めた。娘の家では名誉と思い、娘も喜んで参上すると、真相はこのようなことなので、大いに驚き逃げようとした処を下々の役僧たちに捕ってしまった。その娘たちのなかのひとりが、監視の隙をみて首をくくった。もっとも未遂に終り娘の生命は助かったということだったが、これが軍の上層部の知るところとなり、娘たちはすぐさま白由の身となり親元に送りかえされた。だが一方、このような坊主にあるまじき非道な策を立てた責任者は、安土城の信長様の許に護送されたが、そのまま消息を絶ってしまったという話も伝わってきた。

それらの噂さとともに、奈良の町を恐れさせたのは、法隆寺を恐怖の坩堝にまきこんだ軍団の嵐が、やがてはこの奈良市中の寺院にも襲いかかってくるであろうという不吉な予感であった。そしてそれはすぐ的中した。さきの部将のひとり矢部善七郎なる方が噂でもちきりの奈良の市中に乗り込んできたのである。先発隊だということであろうか、二日目の夜になって、延々三里に亘って北と西から奈良にはいる二つの街道を、あかあかと無数の松明を夜空に燃やしながら、滝川一益、それに明智光秀の部将も新たに加わって、一万の軍団が進駐してきたのであった。

奈良の町は、ふたたび大きな戦さが始まるに違いないと、不安に戦いたが、人々は何かこれまでの合戦のときとは勝手が変ったものを感じた。私もこれは少し調子が違うぞと思った。第一、これらの軍団が奈良の市中に進駐してきた夜、松明を惜しみなく照らし、部隊の行動を明らかにしていたことは、臨戦体制にしてはいささか大胆にみえた。また市中を往来する連絡の騎馬武者が、太刀や物具のおもたさそうな音を鳴らさず、狩衣姿であるのが、合戦前にしては尋営すぎるし、屯営する陣中の規律もよく統べられて、不祥な事件がおきたなどの話もきかなかった。たしかに今にても合戦が始まるような状況とは違うものがあった。だが、それだけに、得体知れない不気味さを奈良の町が感じているのも事実であった。

私も自分の気持を何と言ったらよいか、うまく伝えができないが、強いて言うならば、大地がゆれ動いてこれまでの諸々の形が崩れ去り、あとにこれまでと変った世の中ができそうな、しかし、それがなんなのか全く予測がつかぬために不安がいっぱい渦巻さ、心は怖れに満ちているのだった。

私はそのおりのこの辺の奇妙な心理を、殿には次のように足して説明申しあげた。

合戦もやはり恐しゅうござります。おのれが敵の手にかかり生命を落すのではないかと、この死の不安、死への恐怖は合戦に臨むたびに必ず経験したのです。勇者はそれにうち克ち、怯者はそれに負ける、その違いはあっても、死の恐れを抱くのは誰も同じでござりましょう。しかし、その頃の死の恐怖にどんな形で耐えてきたものか、当時はしかと覚えなかったものですが、今になるとなんとなくわかるような気がいたすのも、齢を重ねてきたからでございましょうか。そうです。こんな風に申し上げるがおわかりやすいかと思います。

この菊池の城の緑も濃い樹々のたたずまいが、われらに与える大きな頼れる安らかさ。月見殿の高台から南に望める眼下の稲田の青さ、迫問川、菊池川の水の清い豊かさ。重畳と峯をつらねる鞍岳、深葉尾岳、八方嶽の壮大な山容。これらの自然の姿が眼を閉じていても鮮やかに映ってまいりますが、これらが合戦に臨むまえの、死の不安におびえて落つかぬ心眼に突如として焼つくように映じたものでござりました。そのたびに、おのれがこのたびの合戦で一命を落すようなことがあっても、これら自然の風景は死後も変ることなく、未来永劫にわたってつづくのだ、と思い更に妻子たちは一時はおのれの死を悲しんでも、やがてはこの自然の風景によって悲しみも和らぐであろう、ふたたび生きる心を持直すにちがいないと、

おのれに言ってきかせると、死の不安が軽くなったものでございます。今から振りかえりますと、およそ僧らしからぬ当時の私でございました。自然の風景は決して変らぬとする信頼の心、これほど人間がおのれの周囲の山や川や土地と強く結ばれていると知ったのは、合戦のないおだやかな日々でなく、合戦の時出会ったのはいかなる縁でござりましょう。

申したいことに少し遠くなりました。つまり、あのときの奈良の市中を埋めて満々ていた不安は、この自然の風景が根こそぎに崩れてしまうのではないかといった、いままで経験したこともない恐怖であった申してもあながち大げさではございませぬ。

このような経験は誰も同じであったとみえて、英俊とか申す人の日記に「……前代未聞のことであるが、どうにもならないことだ。臼月が落ちなければ神慮を願い奉るのみ」と記し、さらに「老い先短い身にあさましいことを見聞して情ないことだ」と嘆かれたということであった。

また一方ではこのような驚天動地の場合でも不逞の輩はいるもので、土地の面積を書き入れた指出をごまかしたために戒重とかいう国衆等四人が捕えられて斬られた。

あれこれと奈良の市中を覆う不安と恐怖が、こんな形であらわれてくるので私たちは、旅立ちもならず足すくみの恰好で無為の時を一旬ほどすごしたのであるが、奈良の町を通過するもので、行先、身分に正当な証しを持つ者の往来はお構いなしの布令がでるに及び、私たちはようやくこの得体のわからぬ動乱の地を脱出できたのであった。

後日、知るところによると、滝川一益、明智光秀、矢部善七郎の三武将たちは、十一月のはじめまでかけて、各土豪、各寺からの指出し書を取り終えて京都に引き上げられた由。その後まもなくして、安土城の信長殿から、それぞれの所領、寺頒安堵の命が届き、大和一国は筒井順慶様の御支配となり、先にも申した通り郡山城の外は国中の城砦はすべて取り壊しになったということである。

私が少なくとも検地に関して実際に見聞したのはそれくらいのものであった。大和の法隆寺や興福寺が信長様の命に従ったので寺領を安堵したのに反して、和泉の槙尾寺が指出しを拒絶したばかりに、寺領の没収にとどまらず寺まで焼かれてしまったことは、畿内から帰国した直後天正九年に聞いたものだった。そんなわけで私は、信長様のご仕様については、現地の空気などもあわせて少しはわかるわけであるが、秀吉様のなされ方は遠くから耳にするだけである。そしてそれは信長様よりももっときびしく、断固とした検地のなさりようであったと聞く。殿もこれら上方で行われてきた検地について全然御存知ないとは思わぬが、私が聴き知っているうちから二つばかり、秀吉様のなされ方を申し上げた。

さきの奈良の興福寺が天正十三年にふたたび秀吉様の指出しを受けたとき、信長様に安去された一万八千石にかくし分の七千石を余分に加え二万五千石と申告した。この際二万五千石を公認にして貴い以後の安泰を計ろうと策したのであろう。秀吉様は興福寺のやり口に立腹され、一万石を減らされ、更にかくし分の七千石を没収してしまい、のこりの八千石を寺領と認められた。その八千石も、興福寺が、大政所様を通じて秀吉様に嘆願されたからという話であった。

いま一つは、実際に検地をされる百姓が、隠し田をして負担を少なくするものがあったので、検地のやり直しを命じられたところもあったそうである。如何にもありそうなことであるが、そのとき

                                                                          一つ・隠し田畑をしない。

二つ・賄賂でみのがされた田畑は申しでる。

三つ・検地後の新規開田もあとで申し出る。  

四つ・田畑の等級をごまかさない。        

五つ・知行主と申され合わない 

 

等々の誓書をださせ、違反したならば本人はもとより、女、子どもまで極刑にする旨布告がでたという。天正八年夏、奈良の市中で滝川一益様の命により首をはねられた国衆戒重ら四人の例や、これは検地ではないが、一向一揆の戦いの長島の戦例でみられるよう、本当に、女、子ともまで皆殺しにあっているのだから、このたびの誓書違反の極刑も決しておどかしばかりではないとおもわれるのは当然であった。

 

           5

 

夏の夜の犬の上刻はまだそう晩い時刻ではない。その半刻まえはわずかながら四辺は明るいし、それから近在の百姓は一日の仕事を終えて夕食にかかるのだ。八方岳の麓にちかいこの寺とても農家のやり方は大同小異である。勤行を終えてようやく寛いだ気分になり縁端に座して、涼を入れる時分ともなるとどうしてもこの頃になる。まだ晩い時刻ではないけれど、山がめぐり、木野川の渓もあるような山寺ゆえに、寺域の樹々の葉を鳴らして渡ってくる風は流石に冷やかである。齢を重ねて夏の日の暑さはことにこの年来苦になるようになったが、夜の涼気に富んでいるのがただ一つこの土地の夏の暮しを忘じがたくさせている一つの魅力だと思っている私であった。殿の許を辞し帰山して数日経った七月六日の晩であった。泰山木の肉の厚い紡錘形の葉が庭の高いところで鳴り渡っていた。縁柱に背をもたれ、吹かれて散る蚊やりの細い火くちをみながら、私は今夜あたりは藤右衛門がやってくるかも知れぬと心待っていた。

「雨戸をしめましょうか」

庫裡へ通ずるまわり廊下を坊守が手燭をかかげてはいってきた。

「いま少し。藤右衛門が今夜はやってくるかも知れぬ」

「藤右衛門が……」

「うん。殿のことで極内密なことだ」

坊守はもってきた手燭をふたたびかかげて足元を照らしながら去っていった。

そしてまもなく藤右衛門が訪ねてきた。彼は一礼すると小声で、「ひとりの男をつれて参っておりますが構いませぬか」

と言った。私がうなづくと、藤右衛門は縁端にいざり寄って軽く膝をたたいた。すると泰山木の幹のかげからすっと黒いものが動いたかと思うと、すでに二、三間はなれた縁の沓石のふちに両の指先をそろえてかしこまっている男がいた。

「風のような男だな」

私が感嘆すると、藤右衛門が、

「矢助と申します。仰言いますよう風よりも早いときがございます」

と言い添えた。男はかれたちの定法を守って、面体をかくしている頭巾をとらなかったが、頭を上げたとき紙燭の光りを正面にうけて眼を光らせた。光りのなかで閃めいた眼の早さは男が十分仕事に熟練していることをおもわせて、私はこれなら殿のお役に立てるだろうと安心するものがあった。踏石のふちに当てている指は関節が大きく高く百姓の手であった。専門の忍びでもないが、全くの素人でもない。藤右衛門も元気な時分は近隣の国侍の動向を探索する役目をもって殿に仕えていた老人である。いまは名主百姓として、殿が最初に館を築かれた永野遠返しの近くに住んでいる。私は矢助をみるのは今夜が始めてであるが、藤右衛門の弟子で行々跡目を継ぐものであることはかねて話をきいていた。

矢助が私の許にやってきたのは、殿の命であって、それは私が記録をまとめるのに種々の材料を提して私を手助けるためであった。

あらかじめ、殿と私の間にそのことについて了解は成っていた。まづ手始めに矢助の話を私が記録風にかいつまんでまとめ上げるとこんな具合であった。

・・・・お館様(矢助がこういう場合は親永殿を指す)のお断りに腹を立てた隈本方は、あれから(佐々殿が殿をはじめ国侍のお歴々を謁見された日、つまり検地を行うよう企図を明らかにされた日でもある)引きつづいて三日の間真剣にこのあと、どんな手段を講ずるか話合いが行われた。私(矢助)がこの眼と耳で直接にうかがい知り得たのは一番最後の日で、察するにそれは最終決定がなされた場合であったと思われる。

評定の進み具合全体を通して、佐々殿が執拗に検地を強行しようとなさるご心底は当然のこと、またついで右馬頭殿もそれにつかれおし進めようとしていられると、矢助がみたのはこれまでの経緯から首肯できる次第である。宗能殿については矢助は、慎重なのか、頭の切れが鈍いのかよくわからぬと申したが、一ばん初めに検地政策をとりあげるよう立案しかつ、あの謁見当日、佐々殿に代って国侍の方々に具体的な実施方法を説明したのは、他ならぬこの宗能殿であることはすでに記したが、このたびまた宗能殿の言動によって、隈本方の動きがつかめるといった貴重な情報を持ちかえったのは大きな収獲であった。隈本城の密議の模様を矢助が聞いているように書きあらわしてみる。

「殿、これまで申し上げました通り、あくまでも弓矢にかけて但馬守の所領の検地をなすれば、相手もこれまた弓矢にかけて拒絶するは必定でござりましょう」

「さればもとよりこちらも再三申しているよう、武力に訴えて行うまでじゃ。お主はなぜそれほどまで気乗りしないのか。検地をせよとはお主が言い始めたではないか」

右馬頭殿は少しいらいらしているようだった。

「それはもし合戦となり申した時、外の国侍の動きがどうなるか、そこがまだよく掴めぬからです。但馬守に謀反の心ある故に合戦を仕掛けるのであれば、国侍は順当に殿の下知に従は易いと思われます。だが検地の申入れを聞かないからこれを討つ、ということになると、国侍のなかには逆に但馬守に味方するのが現われぬとは限りませぬ。なぜならば、但馬守の次はおのれが倹地される番だと危倶をもつからで、このような不安から免れるために、かえって弓矢をこちらに向けることになりましょう」

「そうなれば、それを討ちとるまでじゃ。そちは謀反でないと云うが、但馬守の拒絶ははっきりと殿に反旗をたてているのと同じではないか、ひとり、ふたりの国侍どもが但馬守に味方してもなに程のことかある。この右馬頭が一気に蹴散らしてくれるまでじゃ」

矢助は天井板のわずかなつぎ目の隙間からみるので、右馬頭殿の表情はわからぬがその声はますますいらだちを強めてくるように思えた。

「宗能は、国侍たちが但馬守に味方するとみているが、儂にはそう思えぬ。彼奴らの心は面々個々に動いていて、約を結んで事に当ろうという気は毛頭ないとみて構わぬ。なぜかと申せば、殿のさるご引見の日、阿蘇の惟光、惟善ご兄弟を兄上が慰撫されて封を復されたが、国侍たちのなかからなんの反応もあらわれなかったことは、お主もよく存知の通り。このことはとりもなおさす、肥後土着の国侍たちの心が面々個々であることを証するの他なにものでもない。もし、彼奴らに心を一つにする気風があるとすれば、由結ある阿蘇殿の復封は肥後の国こぞって喜びとしてよいもの。殿の道理あるなされ方を国侍のうち、誰がこれを賞揚したものがいたか。宗能、お主の申すことは取り越し苦労というものじゃ」

「そうでござりましょうか。殿は如何お考えなされますか」

「うむ。そちの言い条も尤だが、右馬頭にも一理がある。どちらとるかといえば、但馬守の所存は不届千万、この成政を軽く見ての所業なれば討たねばならぬ」

「では、すぐにも兵を……」

「とは一言っても、兵をおこすには、もちと時をみなければなるまい、のぅ右馬頭」

「はあ、その点は仰せの通り兵を動かすには機がござる故すぐとは、いきませぬ、だか私としてあくまでも、但馬守が強腰ならば合戦に訴えても検地を行なうのみと考えます」

矢助はこのあと、佐々殿と右嶋頭殿の強行論に対して宗能殿がどんな態度にでるか、全身を耳にして待った。彼の一言で評定の大勢が決まると思ったからだ。

「その機はまいっておりませぬ。叔父上の仰せはこちらから無理をして兵をおこす愚を求めることに相成ります。もつとも兵を動かすに拙なやり方と申すべきでございます。機の熟するのを待たずに、みだりに兵を発すれば、名分もたたず、秀吉様よりきついおとがめを蒙るは必定でござりましょう。殿はそれでも構わぬと申されるのでござりますか」

「うむ……」

「殿も叔父上もいま一度お考へ下されませ。万一、おとがめを蒙むることあるような事態とならば肥後大国の大名となられた殿の御運も水泡と消え、ふたたび不遇をかこつ境涯と相なるかも知れませぬ。さればここのところ、いま一度ご勘考を願わしゅうございます」

「ならぱ、そちは兄上にどのようになされよと言いたいのじゃ」

右馬頭殿はまだ釈然としないものがあるように見える。佐々殿もいささか不承々々たらしいお言葉であった。

「そちに考えがあれば申してみよ」

「はい。一つ策がございます。殿の就封を祝し、国侍を招き観能の会を催してはいかがでございましよう。幸い、日吉太夫がいまこの地に逗留いたしておりますので好都合かと存じます。しかして手筈を合わせておいてその席で……」

矢助は驚いた。観能や茶会や和やかな団楽の席を設けて、その場で賓客の生命を絶つ故事のあることは聞いてはいたが、まさかおのれの主人であるお館様にそんな落とし穴が待っていようとは。一瞬、評定の座を照らしている紙糊の火芯が凍うたように静止したかに思えた。閉めきった密室のなかでは、呼吸やわずかな身じろぎでも、かすかな気流を生じるのであろうか、たしかにそれらの動きが、いまの宗能殿の発議で停止したのだった。佐々殿をはじめ座につらなる重臣たちの胸中を、凍る紙燭の火と、妖しく動く気流がつらぬいたようだった。彼らがようやく事態が呑みこめてわれにかえったとき右馬頭殿が詰めるような調子で言った。

「いかにもそれは妙策だ。戦わずして但馬守を討つこと計れば、それに越したことはない。事のあと、秀吉様に知れたとしても、彼奴に謀叛の意あり事前におさえたと言えば、申し開きでもできる」

「だが……」と佐々殿が口を開かれた。

「千に一つ、もし仕損じたときはどうするつもりじゃ」

「殿、決して、ぬかりはいたしません。必ず討ってごらんに入れます。ただ気にかかることは、但馬守が古今東西の故事に通じ、病気と称し不参の場合……」

「それじゃ、その時お主は殿になんと申しひらきをする所存か」

右馬頭殿の申し様にしばらく思案なさるかと思われたが、宗能殿は、立ち所に答えた。

「その時はこの宗能、但馬守討手の先陣を相つとめます」

「よし、されば急ぎ観能の手筈をいたせ」

矢助はこれで相手方の最終的な決定がなされたものと判断した。

彼はすぐさま大きな収獲をつかんで隈府守山城に立ちかえり、一部始終を殿に報告した。矢助の報告のあとを追いかけるようにして、城越前守久基様の密使がまいり、佐々殿の企みを知らせてきたので、矢助の情報はまちがいないものとなった。                第一章終り