平成24年(2012)10月4日
冨田巌様
前略
ようやく秋らしい暮らしよい季節となって参りました。いかがお過ごしでしょ
うか。突然お便りを差上げる非礼お許し下さい。
さて、私事で恐縮ですが、郷土史を愛好している私は、いろいろな知識や情報
をすぐに思い出せるよう、郷土史に関する様々な出来事を史諦風にとりまとめ、
『ルーツ余話』というタイトルで書き認めておりますが、このたびは、「隈部氏
流・冨田氏」をテーマに「余話164稿」を加筆させていただきました。そこで富
田様にもぜひご一読いただければと思い、勝手ながらお送りした次第です。
草々
竹田正邦拝
(注鐸)
「ルーツ余話164」の冒頭に出てくる「大喜」という女性は、幕末に隈府町の有力商
家(大店)に嫁いできた人ですが、実家は旧鹿本郡内田村、冨田大右衛門氏の娘です。
なお、大右衛門氏が冨田一族かどうかは分かりません。
また、江戸時代末期の隈府町には、ほかにも冨田氏から婿取りをした有力商家がありました。藩政時代、在町隈府は商業の町として繁栄しましたが、文化14(1817)年に宗伝次が写した『菊池家代々井胆後年代記』によれば、当時、町の運営は、菊池七家(菊池氏家臣の末えで菊池氏滅亡後商人となった者たち)とその他十三家を中心に行われていたそうです。その筆頭格が菊池氏重臣の末えである中町の宗家であり、もう一方の旗頭が、町別当を務めた下町の中島家です。同家は、もともと薩摩の島津氏に仕え、「慶長の役」に従軍、帰国後薩摩を辞して、肥前名護屋の中島村に住み、それを苗字としました。その後、浪人となり隈府へ転住、士席を脱し町人となりました。薩摩では検非違使(職)を務めていたそうです。
時代は流れて、中島家九代弥七郎の代妹於琴は、上内田村の冨田伊右衛門氏を婿取りし、明治2年中町に別宅「北窓」を興しました。この「北窓」の跡地は、現在菊の城本舗となっています。伊右衛門氏もまた、冨田一族かどうか分かりませんが、当時、隈府町にも冨田姓に縁のある人たちがけっこういたようです。
○余話No164
<参考史料〉「新撰事蹟通考」「肥後国衆一撲」文責:竹田正邦・・・・・
○○家8代徳太郎は、鹿本郡内田村の冨田大右衛門の娘「大喜」を妻に嬰りました。現山鹿市菊鹿町周辺には冨田姓が多く、地域には隈部一族と同族の冨田民の末えが散在しています。大喜は天保4(1833)年に生れて明治26(1893)年に60才で亡くなりましたが、珍しい戒名の持ち主でもありました。墓石に刻まれている戒名は「智光院放魯奇顔妙艶大姉」、「奇顔妙艶」とは"珍しい顔で色気のある女性"。端的に言えば、"個性的ないい女"だったということでしょうか。極楽寺の住職も思い切ってこんな世俗的な戒名をっけたものですね。
ところで、今回のテーマは隈部氏流の『冨田氏』です。冨田氏といえば、保元の
乱で敗れて肥後に下った、山鹿温泉の発見者宇野親治公を祖とし、隈部氏、長野氏、
阿佐古氏など多くの同族を擁する武家の由緒ある家柄でもあります。
宗家の宇野氏は清和源氏の血脈を継ぎ、5代源頼親が大和源氏を名乗ったことに始まります。そして、8代源頼治が大和国宇智郡宇野荘に土着して宇野姓を名乗ります。人皇10代宇野親治が保元の乱後、山鹿に遠流され菊池氏の庇護を受けました。そして、15代宇野詮治のとき、長女が菊池隆泰の室となり、その嫡男が菊池武房というわけです。16代持直のとき、菊池武房より恩賞として「隈部」の姓を賜りました。隈部とは隈部城すなわち隈府城の別名のこと、いかに菊池氏の信頼が厚かったかが分かります。その後、隈部氏は菊池氏の重臣として主家を支えます。
さらに、22代隈部忠直の長男親興が宗家の宇野氏に養子に入り家督を相続、宇野
親興となりました。そして、親興の孫家光が冨田姓を名乗り宇野氏から分れました。
これが冨田姓のはじまりで、隈部氏の筆頭家老職でもありました。
隈部氏十三代親永は、戦国末期豊臣秀吉の天下統一に抵抗し、佐々成政と戦いま
した。肥後の国衆たちも蜂起して秀吉の施政に一斉に叛旗を翻し、肥後国衆一揆と
呼ばれる内乱へと拡大していきましたが、最後は秀吉軍に敗れ滅亡してしまいまし
た。この国衆一揆の際、冨田氏当主の家治も次席家老多久大和守の裏切りに遭い、
隈府城内の攻防で戦死しています。
その後冨田氏は、家治の嫡男家朝の子孫が菊鹿町上永野に土着し、江戸期〜明治
期を経て今日に至っておりますが、現在の当主は冨田巖さんという方です。冨田巖
さんは平成21年に「隈部氏館跡」が国史跡指定を受けたことを記念して、自宅近
くの同館跡を舞台にした故長井魁一郎氏の小説「肥後隈部親永の終焉」を復刻、自
身の調査も加えて『悠久の郷土史ロマン』として単行本を自費出版されました。こ
の方はもともと教育者ですが、かつ文化・教養人でもあり、冨田一族の直系として
現在も各方面でご活躍の様子です。また、隈部親永公に関しては、平成23年11
月、菊鹿町の「あんずの丘」の野外ステージ近くの高台に同館跡が国史跡指定を受
けたことを記念して、山鹿市により周辺整備の一環として巨大なブロンズの銅像が建
てられました。同時に、あんずの丘の南面には同族である長野家の墓地も公園のよ
うに美しく整備され、「長野溶平先生墓所」として山鹿市により広く一般に公開さ
れるようになりました。
ついでに書けば長野氏は、宇野氏の庶流で清和源氏の血脈を継ぎ、いまから
1100年前に始まっています。歴史は流れて、人皇16代宇野源次郎=隈部持直(隈部家の祖)のとき、二男治朝が養子に入って宇野氏を継承し人皇17代宇野治朝となり、人皇20代宇野忠行のとき、その子右俊が菊池氏衰退とともに山鹿郡長野村(現、菊鹿町の一部)に住むようになってから、長野氏を名乗るようになりました。長野氏の系図によると浮沈はあっても連綿と続いて今日に至っています。
長野氏にあって中興の祖ともいうべきが、人皇30代の宗育で、この人は傑物でした。徳川時代の中期に医を学んで同地で医業を開いて農民の診療に当たっています。在来の漢方医であったようで、宗育・淳庵・大受・集と同じく医業を続けており、地方の有力者だったようです。
長野家の墓所は"あんずの丘"と呼ばれている小高い丘にあり、共同墓地の一区画に長野家の墓石が並び静かに久遠の眠りについています。宗育、淳庵、大受、集の墓石は大きくて門人一同の建立となっています。門人が徳を偲んで墓碑を建てることは、医者の仕事のかたわら近隣農村子弟の教育に砕身していたと判断します。
宗育以前の歴代の墓は小さく「永野」と刻んでいるのもあります。墓石の小さいこ
とから推察すれば長野家の衰えた時代であったのでしょう。宗育は中興の祖といえます。四代にわたる約100年の家塾がどんな形態であったか判りませんが、読書、習字を教えていたと考えられます。以前は武をもって鳴り菊池氏の武将であったが、幕末が近づくころは医と学者の血に変っています。宗育の二男守高は冨田家(庶流)に養子に入り大鳳の父である。大鳳は肥後勤皇党の偉材で明治維新前に大いに活躍しました。
(注)『隈部家一族略系図』竹田正邦作成別途参照。
(宇野家、隈部家、冨田家、阿佐古家、長野家の家系図)
余話一1
平成11年!2月16日、かねて交流のある冨田巖さんから同家の屋敷内にある墓所を写した写真が送られてきました。その写真には、戦国末期(豊臣時代)から江戸時代にかけての大変古い一族の墓群が写し出されていました。そして、その中に1メートル四方の大きな川石を敷いただけの石塔のない奇妙な墓が二っ写っている写真がありました。それが何と冨田家の先祖で、戦国時代に肥後国衆一撲で討ち死にした冨田安芸守家治とその子飛騨守家朝の墓だそうです。それにしてもなぜ朽ち果てた墓のままで埋葬されているのでしょうか。
冨田安芸守は天正15年7月28日、隈府城内で討ち死にしたといわれていますが、戦の最中であったので、生き残った一族の冨田主膳が遺体を城内から運び去り、真夏に大急ぎで10キロ離れた現地に埋葬したものと言い伝えられています。
ひょっとしたら、豊臣秀吉の天下統一の施策に反抗して決起した武将であったため、あえて名前を伏せて密かに埋葬したのかもしれません。なにせ、冨田家は主君の隈部親永と同族で、代々隈部家の重臣だった家柄ですので、安芸守の末代までの供養を願い、敢えて敵の目を避けてひっそりと墓を残したのでしょう。
なお、荒木栄司著「肥後国衆一揆」という肥後の戦国史によれば、飛騨守家朝は、佐々成政が豊臣秀吉に切腹を命じられた後、肥後国主となった加藤清正により、係累討滅のため探し出され殺されたといわれていますが、真偽のほどは分かりません。
隈府城の戦い一冨田安芸守討ち死に
天正15年7月!日、成政の通達を拒絶して、居城の隈府城に帰った隈部親永は、予測される佐々勢の攻撃に備えて、整備を整え、隈府城にたてこもった。国衆一撲の第一ラウンドの戦いである隈府城攻防戦については、この戦いの様子を伝えている文献がいくっかあるが、それぞれ違ったことを伝えていて、はっきりしない点も多い。
まず、「隈部物語」という書物に描かれている戦いの経過から述べる。
7月26日に、成政は隈府を攻めることにしたが、この時期、隈部親永と親泰父子の仲が不和であることを聞き知って、「隈部家は肥後でも由緒のある家柄であるから、成政側に味方するならば、親永に与えられることになった土地はすべて与えるから親永攻めに協力せよ」と親泰に伝えた。親泰は有働大隅守兼元らを集めて、「成政は愚か者よ、今、父子の仲が良くないといっても、敵味方に分かれて世の笑いものになるなど以ての外だ」と語り、成政の使者には、「お味方しましょう」とだまして、使者を帰した。成政の使者に会ったのは有働外記で、外記は、「国主にたてつくようなことをするとは親永は心得違いをしている。親泰と不和なのも、親永が理不尽なことをするためで、成政殿が隈府を攻めようとされるのも、もっともなことと思います。26日に隈府を攻められるということですが、25日には親泰も出陣して、お味方し、隈府の城を打ち破って、親永の首を成政殿にお見せしましょう」と告げた。
親泰は、その夜、隈府の親永を訪ねて、「敵に味方すると見せかけて、時機を見て、成政を討ちます。第一日目には、成政に味方して城に攻め寄せるので、そのように心得てください」と告げた。
ところが、親永の重臣の多久大和守宗員が、この親泰のたくらみを成政に密告し、自分は隈府城の大手口の指揮をとることになっているので、成政方に内応しましょう、と申し出た。
26日、成政は、隈府に出陣し、本営を城外犬の馬場においた。
親泰は成政の陣に使いを送り、川を渡って、成政の兵と一緒になって、城を攻めるようにと伝達した。
親泰は、その使者の様子から、計画が成政方に知られているようだと感知した。
動こうとしない親泰の本営へ成政から、何度も、早く成政の軍と合体せよという催促の使者が来た。親泰は、ついに決断して、またまたやって来た成政の使者を斬って決意を示し、隈府城内に入ろうとした。このとき、大手門の守備についていた多久宗員が、城に火をかけて、城門を破って、城外に出た。城に入ろうとする親泰の兵と衝突して激戦になった。これを見て、成政の兵が、城内に押し入った。
城内は大混乱となった。もう佐々勢を城外に押し出すことはできないと判断した親永は158騎をひきいて、一丸となって斬って出て、親泰の兵と一緒になって一息ついた。親永の脱出を援護して城内に留まった親永の重臣冨田安芸守家治は戦死した。
親永が、夫人と三男の房之進がまだ城中に残っているらしいことに気づいて心配しているところに、冨田主膳、惣理新助、角田玄蕃らが夫入たちを助け出し、裏山伝いに城外に逃れ出てきて、親永のところに連れてきた。途中で追いかけてきた多久宗員の弟の多久源五郎を討ち取ったと云い、源五郎の首を親永に見せた。こうして、城を逃れた親永らは、親泰の居城である城村城にたてこもった。
以上が、「隈部物語」の伝える隈府城の戦いであるが、佐々成政の部下であった田辺平右衛門という人の語ったことを記録したという「肥後隈本軍記」という文献には、かなり違ったことが書かれている。それによれば、隈部親永が二千余人で隈府城にたてこもったので、成政は三千余人を差し向けたが、隈府城の様子を偵察した結果、直ぐには攻め落とせそうにないという報告を受けたので、成政自身が出陣した。成政の方は、頼りになる戦闘員は二、三百人、弓鉄砲は四、五拾挺に過ぎなかった。
このとき、有働大隅守が三千余の部下をひきいて、成政の本陣に近い地点までやってきて布陣し、隈府城攻めの助勢をしましょうと申し出た。成政はこの申し出を信用しないで、大隅守自身が本陣に来て軍議に参加するように伝えた。大隅守は、親永と城の内外から呼応して成政を討とうと協議していたので、成政に警戒されては、この作戦は実行できないと判断し、さいわい、成政は小勢であるから、成政勢の包囲を突破して、城内の兵と合体しようとし、城と陣の間の川を渡り始めた。
これを見た成政は、有働軍全員が川を渡ってしまっては勝ち目はなくなると判断し、渡河中の有働軍に討ちかかった。渡河してしまった人数は成政勢に押し戻されて川へ追い落とされ始め、これを見た後続の人数も戦意を失って敗退したという。
多くの文献では、このとき、城外に布陣したのは城村城から出撃してきた隈部親泰だとしている。親泰勢とは別に有働兼元も兵を出したのであろうか。はっきりしたことは分からない。
なお、この「肥後隈本軍記」には、隈部親永は隈府城を開城して、髪を切って、成政に降状したと書いてある。親永がこの時点で成政に降状したと書いている文献は多い。秀吉の手紙にも書かれているので事実であったと思われるが、いったん降状した親永がどのようにして城村城に、息子の親泰と共にたてこもったかを伝えている文献はないので親永脱出の経緯は不明である。秀吉の手紙には「親永は剃髪して佐々陣に先入った」が「親泰につられて城村にこもった」とある。おそらく、このとき空山という法名をつけたのであろう。
戦いの期日については7月26日からの戦いで、落城は28日という説と24日から27日までという二説がある。
兵力については、成政方が三千から六千、親永の方が二千、その内千五百が多久宗員の配下であって、親永の手兵は百六十とも百八十とも書かれている。
なお、多久宗員の佐々方への降状は永野城でのこととする文献もある。この文献では永野城には親永の重臣有働大隅守兼元がこもっていたが、佐々成政自身出陣して攻撃し、兼元や冨田家治らは城外に出て、佐々勢を迎撃し、家治は自刃し、兼元は逃れて城村城に入ったという。多久宗員、冨田家治が、永野城で戦ったのか、隈府城で戦死というのがほんとうなのか判定できないが菊池でのこととする文献のほうが多いようである。
戦場となった隈府城は、現在は菊池市の菊池神社の敷地となっている丘を主郭としていた城で、南北朝時代に菊池武政が築城したという説がある。守山城とも呼ばれ、一時は北朝方の合志幸隆に占拠されたこともあったが、菊池武光が奪回し、征西大将軍宮懐良親王が入城され、以降、菊池氏の本城として、室町時代に入って、菊池武朝が肥後守護職となると肥後の首城となり、菊池持朝の代には、持朝が筑後の守護職も兼ねたので、隈府城の城下町であった現在の菊池市(当時は隈府)は、肥後、筑後二か国の主府として繁栄した。
永野城は菊鹿町にある。隈部館とも呼ばれるように、この時期の築城例としては珍しく石垣を持つ城館で、庭園跡もあり隈部一族栄華のあとをしのぶことができる。成政入国以前の肥後の城で石垣を持つ城は例が少なく、この城館の石垣は天正六、七年の工事ではないかと推測される。城下には、隈部氏の菩提所清潭寺があり、冨田家治や多久宗員の屋敷跡という地もある。
一途中省略一
なお、隈府城落城の因をなした多久宗員は肥後の人ではなく、筑前文川の城主であった人で、いっの頃からか、親永の客将となっていたと伝えられている武将で、山鹿北方の熊入城を委せられていたという。
隈部一族の主力は、家督である隈部親泰の配下にあったので、親永は籠城するにあたって、多久宗員に戦闘指揮を任せ千五百の兵を預けたのであったろうか。「肥後国衆一撲」より
隈部親永らの最後
天正15年12月15日に開城し停戦した後の隈部親永らの消息は不明である。
秀吉が小早川隆景に指示したとおりの処置がとられたとすれば、城村の城を妻子同伴で出てきて、停戦を申し入れた隈部親泰、有働兼元のふたりだけを城外のどこかに留置し、妻子たちはふたたび城に追い返したことになる。
秀吉の書状や、小早川隆景の手紙などにも隈部親永の名は全く出ていない。
また、その後、親永たちをどのように処遇したかを知ることにできる史料は残っていないようである。
「新撰事蹟通考」に、黒田孝高が降状した親永と次男親房を柳川へ送って立花宗茂に身柄を預からせ、親泰と山鹿重安ら15人は毛利吉成が自分の居城の小倉へ護送させたと書かれてあるので信じる他ない。
一書には、小倉に行ったのは隈部親泰、有働兼元、山鹿重安、有働甲斐、有働能登、有働志摩、木場道庵、北里与三兵衛、甲斐平蔵ら15入と書かれている。
「九州記」や「歴代鎮西要略」などの軍記、「隈部物語」などに、親永らの最後の模様が伝えられている。書物によって大きな違いがあって、まとめて記述する
ことは難しい。天正16年閏5月の成政の自害と前後して、小倉と柳川で殺されてしまったと述べるにとどめるのが妥当かと思うが、主として「九州記」によりながら、隈部親永らの最後を述べてみよう。
佐々成政への私怨で籠城したものであれば、その恨みさえ捨てれば、所領はもとどおりということなので、親永らは停戦して城を出た。その話し合いが大阪でなされることになり、親泰らは上阪するため小倉へ赴くことになった。親永らはその間、柳川に留まることになった。
親泰らが小倉へ向かう途中で、すきをみて討ち取ろうとしてみたが、親泰らは80人あまりの一行であったので、なかなか機会がなく、小倉に到着してしまった。
明日は大阪に向けて出帆という前夜になって、どこから洩れたのか、隈部の本領はそのまま認めるという約東は虚偽だということが隈部方に知れた。
はかられたと知った隈部の一行は、宿所の近隣に火をかけ、騒ぎに乗じて脱出をはかった。どうせ殺すことに決定していた小倉城主毛利勝信は、ひとりも逃すなと兵を動かして斬りかからせた。隈部方も奮闘したが討ち取られてしまった。
以上が「九州記」の記述であるが、「歴代鎮西要略」は有働兼元は四国へ逃れようとしたところを毛利吉成の家臣が捕えて殺し、兼元の長男の孫市郎は肥前長崎へ逃れたが、鍋島直茂の配下に殺された、としている。
戦って死んだか、自害したかは不明と言うほかないが、親泰、兼元らが小倉で襲われたことは問違いないようだ。
柳川にいた親永、親房にっいては、「歴代鎮西要略」は触れていないが、「九州記」にはなかなかくわしい記述がある。
立花宗茂は親永を殺してしまえ、という指示を上使衆から受けると、侍十二人を討手として家臣の中から選んで、宗茂が親永と対談する柳川城二の丸に潜ませた。
親永はもしやと疑念を抱きながらも招きに応じて親房ら十数人とともに登城した。三の曲輪まできたとき、立花方の討手十二人が出迎えて斬りあいとなった。老齢の上、病んでいた親永はたいした働きもできず他の人々とともに討たれてしまった。立花方は全員負傷したが死者はひとりだけであった。
親永らは形だけの抵抗を示しただけで討たれたような描写のしかたである。
期日は、小倉で親泰らが討たれたのと同じ天正16年閏5月27日であったという。
以上は「九州記」などの軍記によったが、肥後で書かれた「隈部物語」は、親永をはじめ主だった人々全員が小倉に赴き、説得に応じて切腹して果てたとしている。
しかしながら、「小野文書」の中に「隈部親永成敗出合人数覚写」という記事が残っていて、隈部親永を柳川黒門前で斬殺したときに討手となった立花宗茂家臣の名が記載されている。十時摂津以下、立花家の中でも名ある武士たちであり、小野和泉が後詰を務めたとある。また別の柳川藩資料には、このとき親永と共に討たれた人々を、牧野、落合、本庄、鶴、長谷川、善良、辻ら十二人とし、立花方では森又右衛門信清が斬られて死んだとある。このような記録があることから考えると親永ら十数名は柳川で斬り合って殺されたというのが正しいように思われる。なお、討手の中に新田掃部という武士の名がある。この人は親永と共に斬られた隈部善了の兄であったと云われ、掃部は善了を助けようとしたが善了は親永に忠義だてして敢えて討たれてしまったと伝えられている。
なお、江戸時代に地元で書かれた「隈部物語」「内空閑伝記」などで気づくことは、悪役になっているのが、佐々成政であることは当然といえば当然かと思われるが、秀吉は悪く書かれていない。代わりに肥後国衆を殺してしまえと指示を出しているのは石田三成である。
親永らの最後に関しても、親永らの処遇について、秀吉は「九州に行ったとき、親永に会ったが立派な武士であった。近く朝鮮へも出征することだし、役立つ武士だから助けよ」と云ったが、石田三成が「それではしめしがっかない」と忠告し、その意見ぶ上意として小倉に伝えられ、安国寺恵霞が、せめて武士の面目を保って自刃されよと親永らにすすめ、それで親永らは切腹したとなっている。
「肥後国衆一撲」より
◎余話一2
城村城にたてこもった人数は1万数千であったという。この年代の肥後の人口は記録がないが、江戸時代に肥後の人口は49万3,525人で山鹿郡は2万8,389人であったという記録がある。うち男子は1万6,173人とある。例え菊池郡の方から籠城に参加した人たちがいたとしても、隈部領の農民たちの相当な人数がこぞって籠城したことは確かであると思われる。軍書の常として合戦時に動員された人数は誇張されているにしても、かなり多数の領民たちが領主に対して協力の体制をとり、成政に反抗したことは間違いないようである。隈部氏が領民に対し強力な支配力を持っていた表れであろう。肥後の国衆は他国の国衆と比較して所領面積の広さが特徴であるともいわれるが、更に、その土地を非常に長い年月に亘って支配し続けてきたことも特徴の一つである。このため、土地に住む人たちとの結びつき、連帯感が強固なものになっていたと考えられる。
「肥後国衆一揆」より
◎竹田様への手紙
竹田正邦 様
前略
大変ご多用の中、ご丁寧なる『ルーツ余話』の164話の労作をお届け頂き誠に有り難
うございます。早速、拝読させて頂きました。
いつもいつも、竹田様の郷土史に関する格別なる調査・研究に敬意を表しています。
竹田様から貴重な隈部家系図をご提供賜りましたことを機に、我が冨田家のルーツを辿るロマンを味わっています。また、9月末に、ご先祖供養の五輪塔を奉納、ご先祖のお陰で、今を生きる我が生命があることに感謝しています。さりげなく過ごす日々ですが、人生を生きる喜びとなすことは、我が人生の最高の極みとし、生きる幸福感に浸っています。
先日、県立第一高校を訪問しました。校内を散策していたら「古城」(ふるしろ)の表示板があり、天正年間の隈本城跡地、加藤清正の築城までの本城とのこと。また、425回忌で光厳寺に御参りすることもできました。思えば、この長い年月、詳しい系図が無いために、先代まで、誰もご先祖供養の環境整美をなすことができなかったものと推察します。『冨田家の祖』碑も建立しました。源・宇野・隈部・宇野・冨田と姓の変遷、隈部家と同じ家紋の言い伝えの証明として末代へ伝えたいと思い、御影石に刻宇し永久保存としました。
この1年、竹田様とのめぐり会わせも、不思議なほど、絆で結ばれていたものと思い、
感謝しています。これらの不思議さは、光厳寺の住職から、江戸時代の墓の家紋を見て、
思わず「内の家紋と同じ」と発せられた一言から、知人が「それは、ご先祖に何かがある」と疑問をなげかけられたことから、私の「先祖のルーツ」を探求する世界へ引き込まれていった次第です。そこへ、竹田様との出会いが天命として、めくり会えたものと確信しています。ほんとうに『幸運』にも出会えたことを感謝しています。
もし、時間をご都合いただければ、是非、一度、拝眉の上、いろいろとお話を拝聴できればと願っているところです。今後とも、ご教示方賜りますようお願い申し上げます。
合掌
冨田巖
平成24年10月7日(日)