鹿本町史の掲載より紹介
上巻 P364
昭和50年10月31日NHKの招待で来日した、豪州クーマ町のロータリアン ネビル・アンダーソン電気技師が、熊本日豪協会(会長熊日社長島田四郎)の冨田巖委員と同道来町、鹿本町役場に町長を訪問して、本町がクーマ町と地形、産業構造、人口、等が類似しているだけでなく、山鹿とクーマ両市町のロータリクラブ間の協力で、日豪留学生の交換をすでに実施している関係もあり、是非鹿本町とクーマ町両町間で姉妹関係を結ぼうとの呼び掛けを受けた結果、両町相互間で留学生の交換、旅行者の歓迎など、家族的な付き合いを通じて、日豪親善に寄与することができるならばと11月4日鹿本町とクーマ町との間に正式に姉妹都市の締結を宣言した。 クーマ町は、豪州、ニューサウス・ウエルス州、キャンベラ市の南方110キロの地点にある、標高800メートル、人口7600人の小さな町。L.D.L.フィールド町長。 (注)・クーマ町はすでにニュージランドのタウポ町とフィリピンのパガリアン市と姉妹都市を結んでいる。なお、ニューサウス・ウエルス州には、シドニーの大都市がある。 ・ ・・第二刷 平成17年1月14日発行 発行所 鹿本町役場 下巻 P35〜P54まで 交流記録掲載あり 鹿本町史 下巻 P35 〜P54 第T編 第1章 町政の発展
・交換留学生と姉妹町〈鹿本町クーマ町〉 はじめに 鹿本町とクーマ町の交流関係や、交換留学生の話題が昨年(昭和五〇年)から今年にかけて、テレビや新聞に報道されました。今や国際交流は、ごく普通のことですが、田舎ではまだ話題を賑わすことではあります。 一体鹿本町は、どうしたいきさつで姉妹町を結ばれたかという疑問に答えると同時に、お互いに気軽に外国人との交際をするようになることも意義あるものと思い、拙文を記した次第です。 (クーマ市章の写真あり) 一、熊本とオーストラリア 私の町(鹿本郡鹿本町)とオーストラリアのクーマ町が昨年(昭和五〇年)11月5日、姉妹町(シスタータウン)の縁結びができましたことをテレビで報道されるや、各地から色々の問い合わせがまいります。どういう縁で、そしてどんな方法でできたのかというようなお尋ねです。 私の町は、過去にいろいろの意味で県内に注目された町ではありますが、至って平和な米やメロンを主体とした農業の町です。一方クーマ町も、今まで誰にも知られなかったオーストラリアの小さな町で、私自身も今度のことで初めて知って、地図を見ると首都キャンベラから南へ一一〇キロ位の所にある町で、人口も ・・・P35・・・ P36 クーマ市の中心街(右上に写真あり) 七、六〇〇人といいますから、私の町より人口では少し少ない位の町でした。 皆さんが不思議に思われるのも、最もなことでしょう。 一二月中旬の新聞報道で、日豪交換留学生として、クーマ町から、ジャネット・K・ダグラス嬢の来日を報じました。姉妹町の縁結びができたので、早速交換留学生が実現したと思われた方も多いようでした。実は交換留学生の計画が早くからあって、その途中で姉妹町の話が持ち上がったのです。 ご承知と思いますが、熊本とオーストラリアとの関係は遠く戦争中に、さかのぼります。山鹿市(旧三玉村)出身の松尾敬宇海軍中佐は、特殊潜航艇に乗って、シドニー湾深く突入し、多大の戦火をあげ、壮烈な戦死をとげられました。私の鹿本中学校(旧制)の四年先輩で、現山鹿市長の古閑さんの友人だった方ですが、その当時豪州海軍は、その壮烈な戦死を弔うのに、丁重にも海軍葬をもってし、敵ながらあっぱれな勲功をたたえたことは、古い方ならご存知と思います、今尚特殊潜航艇はキャンベラ戦争記念館の前庭に大切に保存されているそうです。 昭和四六年に、故松尾中佐の母堂まつえさんは、熊本大学教授松本唯一先生のお骨折りでオーストラリアを訪問されました。オーストラリア当局の手厚いもてなしを受け、心からご子息の霊を慰めて帰国されましたが、翌四七年にはメルボルンに於いて、熊本県見本市が開催され、急速に熊本とオーストラリアの親善関係が深まり、四八年に熊本日豪協会が設立され、民間べースによる友好親善の基礎ができたわけです。全国では東京と神戸と熊本にしか旦蒙協会はないそうです。会長は島田四郎熊日社長、会員には松本唯一先生をはじめ、松下勝県出納長、横山肥後銀行頭取、内藤睦義氏等立派な方ばかりです。 ・・・P36・・・ 37第1編・第1章町政の発展 二、留学生交換 佐伯千鶴さん出発 さて、協会ができたが何か具体的な事業をして、親善交流の実をあげたい。東京は政治的な、神戸は経済的な交流が主となるでしょうが、熊本はそういう面ではあまり適していない。やはり教育、文化、青少年等の面で親善交流をはかることが適切であろうということで、この交換留学生の計画が取り上げられました。 留学生の交換計画の一切のお世話をされたのは、私の町の鹿本中学校英語担当冨田巖先生です。冨田先生は以前から熱心なハム(アマチュア無線)愛好者で、世界各国のハム仲間と交信しておられて、達者な英会話の持ち主です。 一昨年(昭和四九年)七月頃から、交換留学生の交渉を始められたようでした。なにしろ随分と離れた海の彼方のオーストラリアと文書による交渉でなかなか大変だったようです。先ず双方の受け入れ体制、つまり受け入れる学校とホスト(学 生をあずかる家庭)の選定、学校におけるカリキュラムの決定、所要の経費等、何十回とない手紙のやりとり、時には国際電話による連絡など、冨田先生は随分と苦労されて居りました。こちら側の留学生は、早くから故松尾中佐の姉さんの孫にあたる佐伯千鶴さん(鹿央町)に決まっていました。やはり第一回生は鹿本高校から、松尾中佐に縁のある人がよいであろうということで、スムーズに決まりましたが、向こうからは、なかなか決定しなかったようです。当初は、シドニーのNSW豪日協会を通じて交渉がつづけられましたが、なかなか進まず、ついに一時お流れになりました。その後ブリスベンの豪日協会とも交渉が持たれましたが、これも実現せず、暗礁に乗り上げた形でした。たまたまクーマ町のロータリアンで大の親日家のネービル・アンダーソン氏がこの企画を聞いて、クーマのロータリークラブで引き受けたいということで、それからトントン拍子に進み、学生交換の交渉が決定しました。 クーマの受け入れ体制がすみ、渡航手続きや旅券、身体検査等など、外国に一年滞在するための面倒な手続き一切を完了して、不安と希望を胸一杯に、可愛い大使佐伯千鶴さんが郷里鹿央町を出発したのは、昨年(昭和五〇年)六月一六日でした。 ・・・P37・・・ P38 三、姉妹町の縁結ばれる その頃から、前記アンダーソン氏から、鹿本町とクーマ町と姉妹町関係をしたいと非公式の申し入れがありました。冨田先生がアンダーソン氏との間にやりとりされた手紙の中に、勤め先の鹿本中学校の屋上から撮影された写真遠く阿蘇の噴煙を望み、鞍岳・八方ケ岳から広がる田園の中にある町ーを送られて、クーマ町と大変地形や風景が似かよっているので、ということでした。昨年一一月アンダーソン氏は、NHKラジオ・ジャパン・エッセイコンテストに入賞し、沖縄海洋博と日本各地の旅行に招待された機会に鹿本町を訪問、桑原忠義町長にジョン・フイルド、クーマ町長の姉妹町縁結びについての意向をつたえ、細かい打ち合わせをされました。その結果双方とも喜んで友好関係を結ぶことに決定して、ここに正式に姉妹町としての発足を見たわけであります。このことは11月5日NHK熊本から「話題の窓」の放送を通じて、桑原忠義町長とアンダーソン氏との対談で御存知のことと思います。 四、ジャネット嬢来日 12月14日オーストラリアからの交換留学生ジャネット・ダグラス嬢は、真夏のシドニー空港を飛び立ち、九時間の空の旅を経て、師走の風も冷たい暁の羽田空港に着き、東京日豪協会中島常務理事のお世話によって、福岡空港行き日航機に乗り換え、佐伯千鶴さんの御家族と富田先生、それに私が待つ板付空港にたった一人で降りてきました。外人にしては、あまり背は高くない金髪のかわいいジャネットは、大きな荷物をかかえて、出口に歩いて来ましたが、私達を見つけると、さも嬉しそうに手を振って近寄って来ました。全然日本語を話せない一七歳の彼女は、見知らぬ人達とこれから一年間暮す、その不安を思い、私達は握手をしながら思わず目頭が熱くなるのを覚えました。彼女の目もやはりその思いでうるんでいるようで、自分の娘だったら果たしてやれるだろうかと思わずには居られませんでした。そして本当に自分の子供として、一年間心から可愛がって世話をし、日本にきてよかったという印象を抱くようにしてやらなければと、つくづく思いました。 高速道路を一気に南下して、NHK熊本で日本での第一歩のインタビューを受け、冨田先生宅に初めての旅装を解きました。 ・・・P38・・・ P39
第1編・第1章町政の発展 第1回交換留学生 佐伯千鶴さんとジャネットさん (写真あり) 十日間冨田先生宅で日本の生活を体験し、鹿本中学校で一週間生徒達との交流をして、少しでも慣れるようにと試みたのち、12月28日から、最初のホスト勝田和雄先生(山鹿市立病院長)宅に移り、交換学生としての生活の第一歩を踏み出しました。初めて迎える日本の正月に彼女は、私の長女の着物を着て日本髪の写真を撮り、故国の両親に送りました。 1月12日、鹿本高校三学期の始業式に、勝田先生と私はPTAとして出席しましたが、ジャネットは鹿本高校一年生として全校生徒に紹介され晴れて入学を許可されました。学校の御協力によって、彼女には日本語教育を含む特別のカリキュラムが編成され、学級担任や英語担当の先生方から熱心に指導して戴いております。彼女は美術が好きで、絵や陶器に非常に興味をもって居ります。高校を卒業したら、できれば日本の美術学校に学びたい希望をもって居るようですが、兄さんが医科大学で勉強中でお金がかかるので、無理だろうと言っています。 3月28日、二番目のホストである私の家庭に移って来ました。もうこの頃は、言葉も少し覚え、日本の生活にもなれて来ました。私の家は、妻と長女との三人暮らしですが、土曜日には二女が熊本市から帰って来ますし、学校の休暇になると、大学の長男が帰省しますので、若い者同志の屈託のない明るい話題がはずんでいます。四月上旬春休みを利用して、長女が大阪・京都・奈良の古いお寺や神社、それに焼き物の窯元など見学して大変喜んで一週間の旅を楽しんだようです、 五月には、長女の友人の結婚式に連れて行って、日本の結婚式の模様を勉強させました。そのほか、各ロータリークラブとの交換、故松尾中佐宅の訪問など、いろいろと忙しい毎日を送っています。五月二四日、鹿本高校の運動会、彼女は応援 ・・・P39・・・ P40・・・ 団のリーダーに選ばれ、二週間位前から放課後二時間の練習を重ね、すっかり声をつぶしてしまいました。当日のスタイルは、作業着にモンペ、エプロンに姉さんかぶり、しやもじを鳴らしての応援は大変な好評だったようです。練習はつらかったけど本人も結構楽しく、いい思い出になったと語って居りました。 クーマ訪問の議員団(昭和60年5月) 写真あり 五、クーマ町長来町 クーマ町との交流についても、なるべく彼女の滞日している間に、具体的に進めておきたいと考えています。 ジャネットが来日したとき、クーマ町長のメッセージを携えて来ましたが、彼女が鹿本町を訪れた最初の可愛い大使として、より多く親善の実をあげることを期待していると書いてありました。また年頭の賀状には、共に地方自治の担当者として、住民福祉の向上に資するため、いろいろのアイデイアを交換し、永久におつきあいをしたいと申し入れがありました。 鹿本町としても、是非そうありたいと念願しているところですが、具体的な交流の方法として何から始めようかと考えた末、まず小中学校相互の作品交換を通じた交流からはじめ、だんだん輪をひろげ、学生、青年や婦人層、各種グルーブ一般へと発展させ、町ぐるみの交流をしてはと話し合いました。早速桑原町長名の公文書で、フイールド町長に手紙を送りました。 四月末突然クーマ町長から鹿本町長あて、手紙が届き、アジア観光旅行団の一行に加わって訪日するので五月四日、京都から大阪発熊本行きの飛行幾で、鹿本町を訪れますとの便りが舞い込みました。いつの日にか、両町長 ・・・P40・・・ P41 第1編・第1章町政の発展 の相互訪問という夢を実現させたいと思っていた矢先、思いがけなく早いクーマ町長の来日の報に、私達は本当に嬉しく思いました。当日午前10時過ぎ熊本空港に降り立ったフイールド町長夫妻は、出迎えの桑原町長、冨田先生、ジャネット嬢、それに私と私の長女、二女等と固い握手を交わし、「ようこそいらっしゃいました。心から歓迎します」のあいさつに「日本に来ることができ、そして鹿本町の皆さんに会えることができて、こんな嬉しいことはありません」と、にこやかに答え、なごやかな歓談をしました。前夜までの雨もからりと晴れた阿蘇路に案内し、火口底まで、はっきりと見えた世界一の大阿蘇に、驚嘆の声を上げて喜びました。鹿本町では、議長をはじめ、ロータリー、ライオンズクラブの代表者や小学校長先生、報道陣と昼食を共にしながら、プレゼントの交換や、つきない話し合いがつづきました。 京都からの日帰り訪問でしたので時間が少なく、来民小学校と役場で短い時間、あいさつを交わして、NHKのたっての要請でフイールド夫妻とジャネットが出演して対談収録、熊日新聞社で島田社長にあいさつし、またそのまま空港へとあわただしい一日の来町でした。車の中で私なりに色々聞いたところでは、クーマ町の人口は七、八○○人位ですが、面積は熊本県の広さがあること。観光と農業の町、議員は九人で町長は議員の互選であり、非常勤で給料はないなど、同じ自治体でも行政組織面で大分相違があることなどを知りました。しかし、そういう国状の違いを超えて友好を深めることに、意義があり、いつまでもお付き合いを深めていきましょうと固い握手を交わしながら夕闇迫る熊本空港で別れを惜しみました。フイールド町長の早い機会の来訪でこちらからもなるべく早く桑原町長の訪豪を考えなければならないと思っています。また、フイールド町長のお土産の中に、クーマ小学生の図画があり、来民小学校を訪れて手渡されました。町内三小学校に廻した後、こちらも作品を送ることにして居ります。 六、佐伯干鶴さん帰朝 五月三〇日(日曜日)午後二時三〇分、熊本空港は、一年間の留学を終えて今日故国の土を踏む佐伯千鶴さんの出迎えで沸いていました。 ・・・P41・・・ P42 千鶴さんの御両親をはじめ御家族親類-九一歳の松尾おばあさんも含めて島田熊日社長、日豪協会員田尻氏、小西事務局長、冨田先生御夫妻、ジャネットを連れて私の家族、鹿央町役場の井出氏等、大勢の出迎えの中に、運良く上京して居られた松本唯一先生と一緒に元気よく手を振って降りて来ました。半年ぶりに会うジャネットと肩を抱き合い、嬉し涙を流しながら、久しぶりのつきない話に夢中でした。すっかり英語が上達していて、ジャネットも久しぶりに思う存分英語で話が出来たという感じでした。鹿央の自宅へ帰るまでお父さんの車に乗らず、ジャネットと共に私の車中でずっと話し続けていました。 七、ジャネット嬢の生活 六月二六日、早稲田大学客員教授として滞日中のニューサウスウエールズ大学電気工学部主任教授F・J・エバンス先生が、九州各地の発電所視察のため熊本に立ち寄られました。エバンス先生は、ジャネットのお父さんと友達(ジャネットのお父さんはクーマ町にある国営水力発電所の技師長で、たぶん電気工学関係の友達と思います)だそうで、九電からの連絡で、ジャネットを伴って熊本ニュースカイホテルで、昼食を共にしながら歓談しました。科学者とは思えない温和な先生は、終始笑顔をたやさず、ジャネットの通訳で、色々と話し掛けられ、ジャネットの厚遇に対するお礼やら、鹿本とクーマの親善をもっと深めたいと語られました。楽しい二時間を過ごして、二人で熊本空港まで見送りました。 七月一〇日から一五日まで、ジャネネットは鹿本高校二年生として、楽しい修学旅行に出発しました。京都・富士山・東京と五泊六日の旅は、彼女にとって忘れられない思い出を沢山つくったようでした。東京最後の夜は、大学在学中の長男が案内して歩いたようです。 八月一日、次のホスト佐伯千鶴さん宅(鹿央町)に移りました。前の晩親しい人達を呼んで、私の家族とのお別れパーテイーを催しましたが、アルコールが少々過ぎて、夜中にお医者さんに駆け込んだことも、楽しい思い出となったことでしょう。 ・・・P42・・・ P43 第1編・第1章町政の発展 四ヶ月の私の家庭滞在中に、日本語もぐんぐん上手になり、来た当初は、私達も辞書片手に話していましたが、あとでは、殆と辞書か不要になりました。寝食を共にする生活は、言葉と共に、お互いに気持ちが通じ合い、言わんとするところは分かるようになるものですね。食事も殆ど何でも食べるようになりました。それでも妻は大分気をつかっていたようです。 日曜や祭日には、つとめて阿蘇など県内各地のドライブにでかけました。陶器の好きな彼女のために、日田市の一の瀬焼、八代の高田焼の窯に案内し、彼女自らロクロを回して湯呑や花瓶を作りました。娘達と映画やショッピングも度々したようです。 八月一日、彼女の三番目のホスト、佐伯千鶴さんの家庭に入りました。おばあさんと御両親、それに千鶴さんと中学の弟さんの五人家族で、何よりも千鶴さんと一緒の毎日の生活は楽しいもののようです。千鶴さんも、クーマに留学中、ニカ月彼女の家庭で生活しましたので、特別にお互いの気持ちが通じ合う友達であるわけです。 夏休みには、山鹿灯籠に参加しました。揃いの浴衣に灯籠を頭にのせて、千鶴さん達と一緒に灯籠踊りに加わり、楽しげな風景は、テレビでごらんになった方も多いと思います。本渡市に留学中のスーザンさんも来て、佐伯さん宅は賑やかな数日だったとのことでした。八月下旬にジャネットの強い希望で長女が同伴して東京に再び行き、いろいろの見聞を広めました。 10月10日、私の親戚の娘がお寺に嫁ぎましたので仏教の結婚式を見せようと、一緒につれて行きました。私たちでさえも仏式の結婚式は、めったに経験しませんので、彼女にとってはすべて珍しく、興味一杯で見つめていました。披露宴では、新郎の友人達から大変な人気者となり、大いに歓迎されていたようでした。 八、姉妹町一周年 八月末、久し振りに、アンダーソン氏から桑原町長宛に手紙が届きました。昨年の訪問のこと、五月のジョン・フイールド町長の来町のことなどのお礼のあと、来る一一月五日、姉妹町の縁ができて丸一年になるので色々と記念行事を計画中で ・・・P43・・・ P44 あるという内容でした。それによると、一一月五日の前後一週間を「かもとウイーク」として、ロータリークラブの会におけるクーマ町長のスピーチをはじめ、各種会合において、鹿本町との親善関係をたかめるアピールをしたり、日本に関する写真や絵、ポスタi等の展示会、音楽会、放送を通じての啓蒙等、企画中であるとのことです。たいへん嬉しいことで、町としても是非何か記念の行事をしたいと早速準備をはじめました。記念行事といっても、そう盛大なことはできない。まだお互いに理解が十分とは決して言えません。あまりにも離れているし、理解する資料にも、機会にも乏しい。この機会に少しでも、相手を知り、理解を深めて、将来の友好の礎とする記念日としたいと言う考え方で、まず出来るだけの資料を集めることから始めました。東京のオーストラリァ大使館と連絡をとり、できる限りの助力をお願いしまして、オーストラリアを紹介するパンフレットやポスター、写真等沢山送ってもらいました。大阪の総領事館から一六ミリフィルムも借り受けました。一〇月二一日、私の出張用事のついでに、大使館に立ち寄って、当日大使の代理に御出席をお願いし、快諾を得ました。ついで国旗と国歌のテープも借りてきましたので、来る一一月五日、町民体育館において、関係者参集のもとに、ささやかですが、心をこめた一周年記念式を開くことに致しました。この行事はテープや八ミリによって、お互いに交換しようと思っております。両町の親善関係は、地味ではあっても永く続かせるために、町民みんなの関心をたかめ、みんなのお付き合いとならなければ、いけないと考えています。 来年一月には、鹿本高校の姉妹校であるシドニーのキララ高校生が二〇名余り、鹿本高校にやって来ます。三日間生徒の家庭に分宿して、スポーツやクラブを通じての交換会が行われる予定です。やがてこちらからも、訪問して理解を深め、親善の実をあげる機会ができると思います。 九、ジャネツトの帰国近づく 昨年一二月一五日、小雨降る寒空の福岡空港に一人降りて来たジャネットも、いつの間にか一年が経過しようとしています。12月初旬には、もう一年の留学を終えて、日本を離れるのです。片言の日本語も話さなかった彼女が、今ではどうや ・・・P44・・・ P45 第1編・第1章町政の発展 ら話せるようになり、日本の生活にすっかりなれて来たところ、欲を言えば、もう一年滞在すれば、もっともっと色々のことを勉強できるのですが、仕方ありません。彼女に「もうあとしばらくになったね」と言うと「それを言わないで」と悲しそうな顔をします。千鶴さんがクーマ町を離れる時も、日本に帰れる嬉しさよりも、皆さんと別れる悲しさが数倍大きくて、とてもつらかった。許されるならもっと滞在したかったと今でも述懐していますが、ジャネットも今その心境ではないかと思います。別れる日が来たとき、私達も平静な気持ちで送れる自信は少しもありません。きっと大粒の涙をボロボロと流しながら、さよならを言わなければならないことでしょう。つらくせつない瞬間が一日一日と近づいて来ました。 しかし、この一年間に彼女が経験した沢山のことが、鹿本町とクーマ町の、そして日本とオーストラリアの相互理解と友好親善の小さな礎となってくれることを確信します。その意味でも、千鶴さんとジャネットは、可愛い大使と言えるでしょう。私達のささやかな努力が又それを支える一個の石であり、一握りの土であったなら、幸いに思います。皆さんの深いご理解と御協力をこの上ともお願い致す次第でございます。 (昭和五一年一〇月/鹿本町助役・小山康) 姉妹町クーマ 長く善き友好の経過 クーマ町(現在はクーマ・モネロ・シヤイヤー) オーストラリア・ニューサウスウエルス州(NSW) 人口約七〇〇〇人 首都キャンベラから一一〇キロの距離にあり、スキーで有名なスノーウイーマウンテンの山裾に広がる、牧畜を主とした静かな町である。国営水力発電所があり、週末にはレクリエーションを楽しむ人々で賑わいを見せるという。 ・・・P45・・・ P46 提携の動機とその経過 昭和五〇年一〇月、クーマ町在住ネービル・アンダーソン氏(水力発電所技師、クーマ・ロータリアン)夫妻が、NHKラジオ・ジャパンの論文コンテストに応募し、その賞として沖縄海洋博に招待された。その折かねてハム(アマチュア無線)で交信し、知り合いの、鹿本中学校の冨田巌教諭を通じて来町、桑原町長を表敬訪問、懇談を交わしながら、地形的にも又同じ農業を主とした町であることも似ているところがあるので、姉妹町として交流しようと話がまとまり、11月5日桑原町長とジョン・フイールド町長との電話により、姉妹町として結ばれたものである 提携後の良好な交流 ●昭和五〇年(一九七五)六月一六日 熊本旦蒙協会(事務局ニュースカイホテル)のメーン事業として計画された、学生の相互交換第一号として、佐伯千鶴 嬢(鹿央町・鹿本高校二年生)出発、クーマ町のモネロハイスクールに入学した。 *佐伯千鶴さんは松尾申佐の姉上の孫にあたり、特に最初に選ばれたものである。 ●昭和五〇年一〇月==日 前記のネービル・アンダーソン氏来町、桑原町長と懇談。 ●昭和五〇年一一月五日 クーマ町と姉妹町締結。 ●昭和五〇年一二月一四日 クーマ町からの交換留学生ジャネット・K・ダグラス嬢(一七歳・モネロハイスクールニ年生)来日、最初のホスト・ 勝田山鹿市立病院長宅に入る。 ・・・P46・・・ P47 第1編・第1章町政の発展 ●昭和五一年(1976)一月一二日 ジャネット嬢鹿本高校に入学。 ●昭和五一年三月一一八日 ジャネット嬢二番目のホスト本町助役小山康氏宅に入り、七月まで四カ月間町民との各種交流の機会を持った。 ●昭和五一年五月四日 クーマ町長ジョン・フイールド氏夫妻来町、桑原町長と懇談、阿蘇山に案内し交流を深めた。 ●昭和五一年五月三〇日 第一回交換留学生佐伯千鶴嬢一年間の留学を終えて帰国。 ●昭和五一年六月三〇日 早稲田大学客員教授NSW大学電気工学部主任教授F・J・エバンス氏来町、桑原町長と懇談を交わし、友好を深めた。 *この間両町の中小学生の作品(絵)等の交換を行い友好促進を図った。 ●昭和五一年一一月五日 姉妹町一周年記念式典及び行事開催。 東京のオーストラリア大使館からワイズ書記官夫妻を招き講演会を開催、会場の体育館にはオーストラリアを紹介する写真・ポスター・子どもたちの作品を展示、熊本日豪協会より副会長松本唯一氏・冨田教諭(通訳担当)`町議会議員・ 各学校長・ライオンズクラブ・それにジャネットも出席し、一カ年を祝福した。尚、クーマ町に於いても前後一週間を「かもとウイーク」として各種行事を行う計画であるとの連絡があった。 *この時点では既にクーマ町長は、ジョン・フイールド氏からトム・ジャツドー氏に変わっていた。 ●昭和五一年一二月 一年間の留学生活を終えたジャネット帰国。福岡空港に冨田教諭`佐伯千鶴嬢の家族・小山助役の家族が見送ったが、 ・・・P47・・・ P48 別れが辛く、搭乗直前まで泣き通したそうである。 ●昭和五二年(一九七七)七月〜八月二一日間 熊本日豪協会主催による第一回学生訪問団渡豪。県内中高校生一三名参加。冨田教諭引率のもとにクーマ、メルボルン、シーモア訪問、学生相互にスポーツやゲームを実施し、友好を進め貴重な体験を得た。 ●昭和五三年一一月五日〜七日 姉妹町二周年記念行事開催。 当時クーマ町から鳥取高校に留学中のダイアン・コックス嬢を招き、一一月 五日両町長による電話祝福交換、ダイアンを囲んで昼食を共にしながら交換、 翌日阿蘇・天草小旅行を実施した。 ●昭和五三年(一九七八) クーマ町よりクーマ町を紹介する一六ミリフィルムの贈呈を受ける。 ●昭和五四年(一九七九)七月〜八月二九日間 熊本日豪協会による第二回中高校生訪豪、冨田教諭以下二三名(内三名は鹿本町から参加)。シドニー、オークランド、クーマ、キャンベラ、メルボルンを訪問、友好親善を進展した。 ●昭和五五年(一九八○)五月 鹿本町を紹介する八ミリフィルムの製作を開始、小柳のアマチュアカメラマン畠山龍之助氏に委託。町内各施設、産業、名所旧跡等を撮影、途中自衛隊ヘリコプターに便乗し、上空より町内の撮影も実施した。 トム・ジャドークーマ町長を囲み 樋ロ博一・高本賢治・西村秀央 (昭和54年・鹿本中クーマ訪問)写真あり ・・・P48・・・ P49
第1編・第1章町政の発展 ● 昭和五六年(一九八一)七月〜八月 二九日間 第三回 学生訪問団、冨田教諭以下二三名 シドニー、クーマ、キャンベラ、メルボルン訪問。友好促進の役目を果たした。 ●昭和五六年九月 鹿本町紹介の八ミリフィルム完成。 ●昭和五六年一〇月一二日〜二一日 桑原町長クーマ町訪問。熊本県町村長会長として県下町村長二〇名と共にクーマ町及びオーストラリア各地を訪問、地方自治体としての見聞と親善を広めた。この際、鹿本町紹介の八ミリフィルムをクーマ町長に贈呈した。 ●昭和五七年(一九八二)四月二一一日〜二四日 日豪姉妹都市シンポジウムが東京で開催さる。当時、姉妹都市二一区市町村、その他六団体、それぞれの団体毎に日豪両町から首長その他関係者が、二〜三名又は五〜六名 経団連のホールに集まり、二日間にわたって、姉妹都市間の交流、経済文化その他の問題について、種々意見の交換を行い、有意義な会合であったといわれる。本町から松本憲正議長と助役が出席、クーマ町からトム・ジヤドー町長以下三名が出席。 ●昭和五七年四月二六日 トム・ジャドー町長一行は、シンポジウム出席のあと来町、町主催の歓迎会で桑原忠義町長他出席者と交換、友好を深め、翌二七日は町内学校や施設、企業等を視察した。 ●昭和五九年(一九八四)六月一〇日〜一七日 クーマ・エクスプレス編集長ジェフエリー・ブラッドリー夫妻来日、助役宅に滞在して町内各施設、学校、産業等を取材し、熊本市や阿蘇・天草等にも案内し、日本の自然や産業、文化等について意欲的に取材した。 ・・・P49・・・ P50 ●昭和五九年七月一一八日〜八月二七日 第四回訪豪学生団体、冨田教諭以下一一名。 シドニー、クーマ、キャンベラ、ロンセストン、ホバート等を訪問、各地の学生との交流を行い、親善の実をあげた。 ●昭和六〇年(一九八五)五月 町議会議員訪豪。 姉妹町締結一〇周年を機に町議会議員一行と助役、議会事務局長、オーストラリア及びニュージーランド訪問、クーマ町に於いては議会及びライオンズクラブ等の熱烈な歓迎を受け、クーマ町の学校や施設、役所、農場を視察、友好を深めた。この時第一回の交換留学生佐伯千鶴嬢が同行して通訳を勤めた。 ●昭和六〇年一-月四日 クーマ町長ジョン・ジョーンズ氏来町。 トム.ジヤドー町長と交代した新町長ジョン・ジョーンズ氏が、ネービル・アンダーソン氏と来町、桑原町長、町議会議員等と歓談、友好を深め、町内施設、学校、農業を視察。この後一一月二九日アンダーソン夫人と令嬢が来町、鹿本中学校・来民小学校・幼稚園を訪問、児童生徒等との親善を進められた。 ●昭和六一年(一九八六)七月〜八月二九日間 第五回学生訪豪団一七名 シドニー、クーマ、キャンベラ、ロンセストン、ホバート等訪問、学校を訪問し親善を深めた。 ●昭和六三年(一九八八)七月〜八月一一八日間 第六回学生訪豪団二八名 ブリスベン、シドニー、クーマ、キャンベラ、ロンセストン、ホバート訪問、各地の学校等を訪問、学生との親善スポーツ等を通して、日豪親善の実をあげた。 ・・・P50・・・ P51 第1編・第1章町政の発展 ●平成二年(一九九0) 七月〜八月 二九日間 第七回学生訪豪団一八名 シドニー、クーマ、キャンベラ、ロンセストン、ホバートを訪問、学生その他と交流、友好親善を果たした。 ●平成四年(一九九二)七月〜八月一一四日間 第八回学生訪豪団一八名 シドニー、クーマ、キャンベラ、レイモンドテラス等を訪問、学校をはじめ各方面との友好親善の成果をあげた。 ●平成五年(一九九三)一一月一五日〜二一日 町民から希望者を募集して中山町長以下二一名が訪豪、中学生から高校大学生を含む多彩な一行は、姉妹町のクーマでは町長以下多数の熱烈な歓迎を受け、大いに友好親善の効果をあげた。尚、シドニー湾とキャンベラの戦争記念館で は故松尾中佐の霊に冥福の祈りを捧げた。 ●平成六年(一九九四)七月〜八月二四日間 第九回学生訪豪団一八名 シドニー、クーマ、キャンベラ、レイモンドテラス訪問、学生その他各地の人々との交換を行い、友好促進の役を果たした。 ●平成八年(一九九六)四月八日 オーストラリア、ハンドボールチーム来町。 四月九日から一四日まで世界八力国のナショナルチームのハンドボール大会が熊本市で開かれ、その中のオーストラリアチームがクーマ町と姉妹町である本町を訪れたものである。一行は公民館で町のスタッフと交換をした後、一本松公園に移動し青年団の八龍太鼓を叩いたりして大いに楽しみ、後の試合に臨んだ。 ●平成八年七月二九日〜八月一八日一=日間 第一〇回学生訪豪団。 ・・・P51・・・ P52 町内一名を含む一二名、シドニー、キャンベラ、クーマ等を訪問、各地の学生との交換を実施した。 ●平成一〇年(一九九八)七月三〇日〜八月一九日二一日間 第一一回学生訪豪団。 この年クーマ町大早越に対し支援金送付、エルニーニョ現象による大早越により、クーマ町の農民は家畜の飼料の牧草が全然育たず、牛を売って水を買うなどの窮状に、本町では町民から募金して約一二五万円を送った。丁度訪豪の第一一回学生団に参加した町内の高校生に、中嶋町長の親書及び町の特産品を持参してもらった。(町内三名参加) ●平成一二年(二〇〇〇)八月一七日〜二四日 鹿本中学生をクーマ町に派遣交流。 鹿本中学生一五名、教育長・校長・養護教諭・教育委員会事務局一九名を派遣し、ホームステイを通じて、歴史や文化の違いを体験学習することによって広い視野と国際感覚を身につけ、豊かな人材の育成を図った。 ●平成一二年七月三〇日〜八月一九日二一日間 第一二回学生訪豪団。 本町から六名参加を含み、冨田団長以下一五名。クーマ町をはじめ各地を訪問、現地の高校生とスポーツ等で親善試合を実施したりして交流を深めた。 ●平成一三年(二〇〇一)八月一二日〜一八日 クーマ町から高校生等一行一五名来町。 クーマ町長コクラン氏等リーダー二名、高校生一二名は町内各家庭にホームステイしながらいろいろな歓迎行事を楽しんだ。パーテイーをはじめ各方面との交換、丁度開催中の招魂祭七夕まつりには、みんなの輪の中に入って ・クーマ町のスキー場 (写真あり) ・・・P52・・・ P53 第1編・第1章町政の発展 踊ったり、山鹿灯籠を見学したりして一週間の交流をエンジョイした。リーダーの中に姉妹町締結当時の町長ジョン・フィールド氏も再来、周知の元助役と再会を喜んでいた。 ●平成一四年(二〇〇二)八月一日〜八月一=日二二日間 第一三回学生訪豪団。 冨田教諭以下一五名、クーマ町で姉妹町として種々交換を行い、その他キャンベラ、シドニーでは現地の高校を訪問、親善交流をした。 ●平成一四年八月六日〜八月一〇日 鹿本町国際交流事業。 鹿本中学生クーマ町派遣交流、団長中嶋町長、野中鹿中校長、教委豊田係長他一名、引率生徒一二名。 キャンベラの市内、国会議事堂等見学の後クーマ到着、ホームステイ。クーマでは羊毛刈りやモネロ高校、ブッシュ村等訪問、シドニーではオペラハウスや市内見学等をした。 ●平成一四年一0月三一日〜一一月一二日 オーストラリア・フェアー開催。 先ず一〇月二二日水辺プラザに於いてオープニング式典が行われ、鹿本中学校吹奏楽部のファンファーレで幕を開け、中嶋町長あいさつ、来賓の福岡総領事、知事、県議、熊本日豪協会長等の祝辞があり、テープカットをして、約二週間のフエアーが開始された。今回のオーストラリア・フェアーは、クーマ町姉妹都市二七周年を記念して企画されたものである。 期間中オーストラリアの物産展示や販売、農畜産加工のマイスターによる技術の交流等も行われた。特に一一月六日にはホーク元首相による講演会が町民体育館に於いて行われ、満員の聴衆に深い感銘を与えた。この為に丁度実施されていた。 鹿本町文化祭を六日まで延長して花を添えた。尚、ホーク元首相は翌一一日に鹿本中学校を訪れ、生徒等といろいろ交流された。 ・・・P53・・・ P54 ●平成一五年(二〇〇三)八月一〇日〜一七日 クーマ町から高校生等一五名(内引率三名)一行来町。 一行は一〇日午後八時着、当日はそのまま六名のホストファミリーの家に向かい宿泊。二日目の一一日は阿蘇山見学、帰って午後五時から歓迎レセプション、一二日は剣道試合、うちわ工房等見学、鹿本中学校との交流。一三日∴四日招魂祭、一五日∴六日は熊本市観光と山鹿灯籠見学、一七日に帰国。日本の文化を堪能し、鹿本町との友好親善を十分に果たした。 ●平成一五年七月三〇日〜八月二六日 前年実施されたオーストラリアフエアーに来町された元オーストラリア首相ホーク氏が鹿本中学校を訪れ、生徒等と愉快な交流の一時を過ごされ、その御礼にと夏休みに生徒の代表を二名、オーストラリアに短期留学招待を約束されました。 愈々平成一五年の夏休みに、田中光久君と本田千春さんが選ばれて渡豪、ホーク氏のプランにより勉強といろいろの交流の二八日間をシドニーで過ごし、貴重な体験を積んだ。 二人はUECという英語学校で、午前中英語の勉強を中国・韓国・インドネシア等の人達と一緒に学び、午後は図書館や映画、或はシドニー市内のスポットに小旅行等をして楽しんだ。夜はホストファミリーと楽しい一時を過ごし、ファミリーとはすぐに仲良しになったという。その他にシドニー水族館、タロンガ動物園、エリザベスフアーム、シドニー大学体育館などを訪問して、オーストラリアを理解することに努め、大いに親善の役も果たした。 帰町後、校内報告会を持ち、また一一月の町文化祭に於いて、町民に対する報告を行い、町民に深い感銘を与えた。 ・
日豪学生交流(2003年8月・於水辺プラザ)写真あり ・・・P54・・・
第14 豪州(オーストラリア)クーマ町と姉妹都市を結ぶ
第五節 国際交流