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隈部神社の祀りの由来


家紋(二本房付き檜扇・丸に梅鉢)

 

隈部但馬守親永の終焉から、時代は流れる。隈部館のあった地域の村人たちによって、隈部親永を奉るために館跡地に隈部神社の祠を建てた。

その理由は、隈部親永の人物の高い評価が村人たちに三つあったからである。

 


隈部神社

勇武・・・勇気があって武術に優れていること

 

知政・・・<統治者として世を治めるための政治力に優れていたこと

 

    仁侠・・・弱い者を助け、強い者を挫き、義のためなら命も惜しまない気性に富んでいたこと

        文責 冨田 巖 2011.8.14

 

今日午後、熊本市内の郷土史研究家(竹田正邦氏)を訪ね「隈部親永」について、人物像をイメージすべきか、で話しをすすめたところ、貴重な言葉がありました。それは、豊臣秀吉が薩摩討伐の途中、親永に会い、「一目惚れ」してしまい、高い人物評価得た。そこで秀吉を支える直属の家臣にしたい想いで、朝鮮出兵を担当させたいと考えた。しかし、石田三成の猛反対で断念。時代の潮流で、薩摩討伐後佐々成政に肥後の国主を命じた。秀吉が御誓文を成政に申し付けていたが、それに反して、検知を強行したことで、親永を筆頭に、国人たちが、反抗したのが国衆一揆の起こり。

 

日本平定をめざす秀吉にとって、隈部親永を敵に回して戦する手強さともなった。そこで、国衆一揆を秀吉に対する謀反として葬り去られた人物。

隈部館跡に祠を後世村人たちが、祀り、隈部神社として現存している理由は、勇武・知行・仁侠の三点を掲げることが出来る。この秀吉と親永の出会い、そして祠がまつられている理由について、山鹿鹿本地区に正しく知られていないのではないか。最近、親永の銅像が建立された理由として、3、4百年間、この地を統治した地域に信頼されていた人物。だから、天正15年の隈府の佐々軍に敗北しても、関係した一門を地域の人々が、江戸初期の加藤清正の時代まで残党狩りされても、「水飲み百姓」として、かくまって、はばかりながら生き延びることが出来たくれたものと推理される。つまり、当時の地域の民百姓に信頼された政治家であった業績が功績となったものと理解する。2012,11.21

 

 

(備考) 

九州の役(天正14年7月〜15年4月)

天正15年3月1日、秀吉は、25000の大軍で大阪城から出陣。船で、3月28日九州到着、小倉城に入城。5月3日薩摩、川内の泰平寺に到着。島津義久は降伏。

5月3日、佐々成政に肥後を与える。

肥後国衆一揆は、検地の方法論で意見激突したもの。(検竿の長さ 6尺と6尺3寸の違い)

天正15年(1587年)7月6日、成政軍勢、菊池の隈部親永攻めの出陣。7月10日開戦。8月1日早朝、親永は守山城を脱出。山鹿の長男親安の城村城へ退避。

8月7日〜18日、成政は、日輪寺山に布陣、城村城を攻撃。激戦。

 

国衆一揆の結末

佐々成政は、天正16年4月2日、隈本城から尼崎へ発つ。

5月30日、尼崎 法円寺にて、切腹。加藤清正 25歳

天正16年5月30日 親永は、城村城を開城

隈部親永は、柳河城 立花宗茂の元へ 黒門橋の戦い12士

隈部親安は、小倉城 毛利勝信の元へ 切腹