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守山城跡地を訪ねて(現菊池神社境内)

およそ四百数十年前の守山城跡地は、どのあたりにあったのだろうと思い、現在の熊本県菊池市の桜の名所である菊池神社を訪ねた。 境内を当時の戦状況を描きながら探訪する楽しさも格別である。神社のスタッフに、昔の守山城跡地は、どの辺りにあったのか尋ねたら、この地、今の神社があるところですと説明に預かった。 郷土史小説に登場する、「桃、朝家、犬房丸」の若者たちが、狙撃の射程範囲にある物見櫓登り樹木幹に身を寄せながら退避する描写された場所を想像する。確かに、神社から南西方角を眺めると花房大地が菊池水耕地帯の向こう側に、はっきりと見える。今では、人口も増加して沢山の家屋や市街地を眺められる時代へと変遷している。 この境内の一角に立って、周りの風景を眺めると、まさしく、緊迫した当時の戦の城内の戦国武将の様子が想像できる。北西側は狭間側、北北東には隈部但馬守親永の居城があった猿返し山も、なんら樹木や山に遮られることなくはっきりと見えている。この辺り一帯で、銃撃戦があったり、切り込んでいったりした白兵戦が繰り広げられていたことは歴史的な事実であり、 遠い昔のできごとではなく、まるで今の時代でのできごとであるかのようにも思えた。このような風景を思い描いて境内と古城跡地を重ね合わせながら、そぞろ歩くことも、また、歴史のロマンの不思議さ、面白さがある現菊池神社の境内である。3月末から4月初めにかけて、菊池神社は桜花見の名所となっている。神社本殿から南南東方角にかけて、当時は二の丸、 三の丸と続いていたとのことである。ここにも郷土史をたどる悠久のロマンが潜んでいることを発見し、我が郷土の歴史を誇りに思える菊池地域である。

2011.1.15

 

隈部館跡・墓地公園を訪ねて

館跡からの美しい眺望

1月2日、春雪の朝であった。隈部神社の初詣に出かけた。歴史小説にある横尾村入口には十戸ほどの小さい村がある。そこから、次第に標高が高くなり菊池川水系の稲豪地帯が遠くに見下ろす。今では、山道が昔と違って車時代に適合した道路が横尾村経由で整備されている。横尾村の入り口からは、山間の谷間の向こうに内田川近くの日ノ岡山が見えた。また、悲惨な場所と言われた木野川の淵がこんもりと生い茂った樫の木や竹山で覆い隠されている景色が見える。横尾村の真ん中あたりから、急な鋭角の左折の山道に入る。「隈部館跡・隈部一族墓地公園」と道案内板がある。カーブした舗装された道路を上っていく途中、何度も車を止めて、遠望の山々を写真撮影した。館近く、国指定を受けたためか、今人まりとした、駐車場とトイレが整備されていた。昔は、高池から直接最短距離で通ったと思われる、小木の生い茂ったトンネルのような山道が一カ所に保存されているのを発見した。昔の小木の山は、今は、開墾されてミカン畑と栗畑に変容している。

隈部館に立ち入る正門から、まっすぐに坂道となり、奥に枡形石垣が見える。

途中、馬場跡、空堀跡の標柱が整備されている。枡形石垣を右に折れてすぐ、左に曲がれば、隈部神社の鳥居と階段がある。館の奥まった高い位置に社が祀ってある。浄財と初詣記帳を済ませて、館跡地へ降りて、明前和尚の書き述べている館からの眺望を今と重ね合わせる散策をする。確かに、春雪の朝であり、空気中の塵もなく、遠くの金峰山、山の岳もくきりと見えていた。絶好の眺望に適した天気であった。 それから、墓地公園へ車で移動。社の離れた裏手に新しく墓地公園が整備されていた。墓碑には゛散逸した墓石をこの地一カ所に、地元の郷土歴史研究家の尽力により移設されてものと記してあった。墓地公園も美しく整備されていたことに感銘した。国指定もこのような努力の賜物として承認されたものと理解できる公園である。約四百年前の猿返し城の跡地は、墓地公園から上方の山腹にあった山城であったが、未確認のまま館跡を離れた。ここにも歴史のロマンが漂う空気が流れている。 2011.1.16

 

冨田先祖の古墓について

屋敷の一角に二百数十年前のご先祖の墓所がある。その石塔の一番新しいのは、「桧扇家紋 光故 覺法無三居士」「俗名 冨田七左衛門 六代 平助 寛政七年十一月」(:寛政17891801 6/25)と刻まれている。寛政七年は西暦一七九五年で、今から二一六年前となる。周りには、「俗名 冨田佑金 七代 平助 孝子 敬白 二月十八日」 正面には、「桧扇家紋 光故 實相院 禅定門 灵故 」、もう一つは家紋無し、正面に「釈休可 正徳六年三月六日」(注:1711〜1716 4/25)と記してあり、ご家来衆の墓石が二十基ほどある墓所である。法名「覺法」とは、1092 1153年に実在した覺法法親王で平安時代後期の皇族僧、白河天皇の第四王子。その高貴な方の名から法名を授かっていると調べて明らかとなり驚く。また、隈部一族の家紋と同じ桧扇は、今でもはっきりと形を留めている。これが一番新しい近在する石塔である。子どもの頃から親、親戚縁者に聞き伝えられたことは、「ここの墓所は大切にしないといけない」と言うことであった。古い記憶を思い起こせば戦前までは、お供え物もなされていたとのこと。冨田家一族のご先祖墓所として、墓守が続けられていた。その墓石のそばにもそれより古い石塔があるが、文字が風化して不詳である。

後世に墓所の由縁を伝える現状保存のために墓誌を数年前に建立し、墓所の整備と管理に努めている。

このような幾つかの関わりの中で、郷土歴史の不思議な出会でご先祖のルーツ、家系をたどるロマンに魅了されたのである。